おばちゃんレポーターが行く

          匿 名 四十四歳 レポーター  芦屋市楠町

 一月末、一通の封書が届いた。「一月十七日をもって活動は停止します。今後のことは追ってお知らせします」。レポーターとして小さな記事を書いている地域情報誌からのものだった。
 (やっぱり馘か)
 昨年も今ごろ経費節減とやらで人員は半分近くまで減らされた。ほとんどを阪神地区の店舗や企業からの広告収入によっている小さな情報紙に、この震災の重さは耐えられないということは私にも薄々わかってきていた。
 震度7地帯にいたにもかかわらず、マンションはひびが入った程度ですんだ。私たち一家は避難することなく混乱の中、サバイバルキャンプさながらの生活を送っていた。
 あの朝、リビングの床には食器や本と共に正月明けの取材の資料が散乱していた。写真と原稿を探しだし、取りあえず鞄に入れた。もう一度大きな揺れが来ると噂を聞き、避難するときの荷物の中に入れたのだった。この原稿は日の目を見ることなく、今もフロッピーに眠ったままだ。
 二月に入り、やっと水くみから解放されたころだった。編集室から電話がかかってきた。
 「枚数は半分になるけれど、とにかく出すことにした。印刷屋も新しく見つけたし、やってみようと思って」
 編集室からもらった私の仕事は、店がつぶれても露店でがんばっている商店への取材だった。
 「いつからスタートされたのですか?」
 「反応はどうですか?」
商品の野菜や果物の上に雪がふりかかる路上で私は話を聞いた。
 「避難所に一日いても、気がめいるばっかりやもん、儲けにはならんけどここへ来てお客さんとしゃべってたらあっという間に一日が終わる」
 市場の再建に向けてご主人は走り回っているそうで、奥さんは興奮気味にしゃべる。
 「ちょっときれいに撮ってや」
 アーケードが抜け落ち、視界が広くなったこの通りで、私はおばさんと商品だけをレンズにおさめた。崩れた市場を背景に入れたくなかった。
 原稿と写真を持って、私は芦屋から西宮北口の編集室まで自転車で走った。代替バスよりも自転車の方が早い。安否確認、取材、買い出しにとよく走った愛車だ。
 いつもの半分の四ページで三月号は発刊された。出来上がったばかりの三月号を自転車にのせて取材先や避難所の情報コーナーに配布した。昼間の避難所は幼児と年配者が目立つ。家族と家が残った私は顔を上げることができなかった。
 元のスタイルに戻ったのは五月号からだった。編集室のメンバーはまた少なくなっていた。
 時間がたち、だんだんと更地が増えていった。プレハブの仮設店舗がたつところもあれば、草だけが繁るところもある。かつて取材した店舗の近くまで行くと、寄りたい気持ち半分、見たくない気持ち半分である。連絡先もない更地を前に、かつての姿を思い起こそうとしても、悲しいかな私の頭にはおぼろげな姿しか浮かばない。
 震災以降の取材先は、とにかく第一歩を踏み出した店舗やサークルがほとんどだ。沈黙したままの素材は扱わない。職人気質のあのうどん屋のおじさんは今どこで何をしているのだろう、活動の場をなくしたあのコーラスグループは? 少しずつ動き出しているとはいえ、見えてこない部分の方が大きい。地域情報紙といってもボランティアではなく、採算が取れないと困るから暗い話題は避ける。私は一介のレポーターだからキャップの指示通り動くのみだ。
 もどかしい思いでワープロに向かいつつ、私は来春一月号の震災一周年特集に向かって動き出している。情報紙は進行形、未来形の世界、埋もれてしまったものをいかにその中に浮かび上がらせるか、それを求めて私は自転車に乗って震災の街を走る。


[ 目次へ | ホームページへ ]