災害報道

          上野 弘子 三十六歳 会社員 神戸市中央区

 やっとの思いで、私がそこに着いた時、部屋に入りきれなかったジャーナリストたちは、廊下の壁に寄りかかったまま、あるいは椅子をデスク代わりにして、パソコンのキーボードを忙しくたたいていた。丸めた寝袋がすぐそばに無造作に置かれている。彼らは一体、いつごろからここに居るのだろう。
 震災から四日目の夕刻に、私は初めて神戸市役所本庁舎八階にある災害対策本部に足を踏み入れた。遅まきながら、報道のボランティアを志願しての行動だった。
 ちょっとしたホールほどもあるその部屋は、中央をパーティションで仕切られ、手前がプレスルーム、奥が行政各機関の対策本部となっていた。ざわめきの中、マイクを手にしたレポーターが部屋のそこかしこで実況中継をしている。
 机の上に並べられたたくさんの通信機器、メモを整理する新聞記者たち、そして興奮した面持ちで取材に対応する市の職員たち。窓の向こうには、臨時のヘリポートとなった東遊園地から、轟音と共に飛び立つヘリコプターが見える。
 この数日で見慣れたはずの非日常の世界。しかしここには、また別のヒステリックなまでの非日常が存在し、私の感性を激しく揺さぶる。
 刻々と変化する死亡者数や消失家屋の件数、新たに発令される避難勧告。喧騒の中でさまざまな情報が集約され、ボードに手書きのメモとなり張り出される。そしてそれらは、次の瞬間には、国内はもとより世界中へと発信されていった。
 顔見知りの市の職員が、昨夜は二時間だけ仮眠ができたと話しかけてくる。震災当日、午前七時四十分に市長による初めての記者発表が行われ、八時に災害対策本部が設置されて以来、ほとんど不眠不休の状態が続いているという。おそらくジャーナリストたちも同様だろう。
 オーストラリアからたった今到着したばかりというテレビのクルーが、私に取材を申し込んできた。広報本部にブルーのセーター姿で座っていた私は、ベージュ色の揃いのジャンパーを着た市の職員たちの中で明らかに浮き上がっていた。そしておそらくその素人っぽさゆえに、部外者にとっては最も声の掛けやすい存在だったのだろう。彼等の申し出を各担当者に伝えるメッセンジャーの役割をいつの間にか担うことになったのは、そんな単純な理由からだったと思う。
 日本のマスコミが、被害の現状や緊急対応策について聞きたがるのに対して、外国人は、港の復旧にどれくらいの時間がかかり、その間のコンテナ作業をどこが肩代わりするのか、といった経済面のダメージと長期的な見通しを知りたがっていた。貿易港としての神戸がいかに諸外国に知られていたかがよくわかる。そして感情に走り過ぎない彼らの言動からは、世界中の戦地や災害地での取材活動の豊富な経験がおぼろげながら感じ取られた。
 資料やパソコン通信のメールの整理などをしながら、私は数日間市役所に通い続けた。ピーク時には、このプレスルームに七百人ものマスコミ関係者が出入りしていたという。市庁舎を幾重にも取り巻くようにテレビの中継車が停まり、レポーターたちが先を争うように、それぞれの局のカメラに向かってまくしたてている姿を何度見ただろう。震災後十日間ほどは、いつ終わるとも知れないそんな取材合戦が続いていた。
 しかし震災から約二週間後、JR須磨と神戸間が復旧し、三ノ宮にどっと人が増えたころには、それに反比例するかのように、対策本部の国内外の報道関係者は減っていた。
 その後、震災を上回るほどのセンセーショナルな事件が首都圏で起こり、報道の中心は被災地の話題からますます遠ざかっていった。たまに陣中見舞いに行くと、ガランとした部屋にはわずかな人影しかなく、数カ月後には本部そのものもなくなっていた。さらに時を経た今となっては、各報道機関も「震災から○カ月目を迎えた被災地」といった、記念日特集でその後の神戸を取り上げるに過ぎない。
 あの数日間の騒ぎは何だったのだろう。
 確かにあの時、世界が神戸に注目し、震災に関する情報を求めていた。空間を電波が走り、神戸の映像がトップニュースとして流れ、多くの人がボランティア活動や義捐金、救援物資の送付など、さまざまなリアクションを起こすきっかけを作った。
 しかし、最も情報を必要としていたはずの激震地の被災者には、当初は全くといっていいほど情報が届けられなかった。
 さらに残念だったのは、レポーターの不適切な発言や、新聞、雑誌の大袈裟な見出しが、被災者の気持ちを逆なでしたことだ。しかし、だからといって激しい余震の続く中で、使命感をもって自らの仕事に専念していた彼らを責めることはできない。
 ただ、反省し、見直すべき点はいくつか考えられる。たとえばテレビについては、震災直後、どの局もほとんど同じ映像を繰り返し放映していたし、ごく主観的な感想を除けばレポートの内容もほぼ同じだった。
 混乱の頂点にあった被災地に大量のスタッフを投入し、危険をおかしながら各社がそれぞれ個別に取材する必要が果たしてあっただろうか。少なくとも当初は、各局の協力による代表取材で十分事足りたのではないだろうか。
 中継車の代わりに、一台でも多くの緊急車両が一刻も早く来るべきだったし、各避難所へのスムーズな情報伝達を報道に携わる者としては優先的に考えるべきだった。最も情報を必要としているところに、速やかに、正確な情報をとどけるのがジャーナリズムの使命だと思うからだ。
 一時のブームのような取り上げ方ではなく、刻々と変化する街と人々の様子を息長く取材し続けることは、復興を促すためにも必要だと思う。
 そして、被災地への理解と新たなる支援を巻き起こすような報道の体制と方法を検討することが、これからの課題ではないだろうか。


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