味噌汁

          匿 名 二十二歳 大学三回生  西宮市愛宕山

 ドドーンという音と共に我が家は傾き、ガラスが割れた。手のつけられなくなった家を飛び出して、私達一家は車の中に逃げ込んだ。薄気味悪い赤い月がとても大きかったのを記憶している。停電になった為、周囲の状況は朝になるまで分からなかった。
 我が家の下には活断層が走っていたそうだ。辺りが白む頃、周囲の変わり果てた状況が目に飛び込み涙を流さずに歩けなかった。突然の天変地異に心がついてゆけずボロボロ泣いた。
 その日から私達一家は乗用車を家代わりに肩を寄せ合って過ごした。避難所へ行かなかったため、おにぎりが一日一個か二個の状況が一週間続いた。三日目には祖母が車中の苦痛を訴えるようになり避難所へ移動した。しかし、場所がないためつきそいを含め二人しか認められなかった。
 我が家は電話線が元から切れたため最後まで通じず、水道の復旧も最後の方であった。唯一の電気を頼りに米を炊いた。温かいにぎり飯がどれほど美味しかったことか。水汲みは母と私と弟の三人の共同作業だった。片道約四十分の道のりを三人で黙って、只々歩いた。この頃の私は髪を振り乱し「家族を守らねば」という一心だった。
 五日ほどすると友人、知人が駆けつけてくれた。人の心や思いやりが、どれだけ人間を勇気づけたか計り知れなかった。この頃からお互い顔を合わせた被災者同士が、見ず知らずでも声を掛け合うようになってきていた。私も一日だけ午後から祖母に付き添うこととなり、避難所へ行った。
 避難所では友人と十数年来の再会もあったが、一日だけとはいえ悲痛なものだった。夜寝る時、私の隣には近所のおじさんが眠っていた。他の人はもっと長くこのような状況に耐えていたのだと思うと、後で自分が情けなくなった。
 朝になると配給のボランティアを呼びかけていたので、私も急ぎ駆けつけた。そこには浅ましい人間模様が見られた。何度も何度も列に並び、自分たちの手元でため込む人、果物が種々様々の時、三つ下さいと言うので、三人分どうぞと答えると、ミカンやリンゴを混ぜずメロンばかりを持っていこうとする人がいた。又、配給係のおばさんがオイルサーディンをよけるので、どうしてかと尋ねると、皆は食べないだろうからと言い、後でこっそり持っていってしまった。そのおばさんが、前日に配られたおにぎりのうち、手でにぎられたような形の不ぞろいのものを焼いてしまったと聞き、皆激怒したものである。皆が苦しんでいる時に何ということだと、悲しくなった。
 この頃の私には物欲が全くといってよいほどなくなっていた。困っている友人とは貴重な水でも分け合い、又、助け合いもした。この頃ほど人間の良い面、悪い面をもろに見たことは無かった。
 二週間目にさしかかる頃、私達家族は大阪の吹田市の社宅に入ることになった。六時間の渋滞の末の到着だったが、足を伸ばして、しかも布団で眠れることが嬉しく、家族全員がはしゃいだ。翌日の朝食卓に御飯と味噌汁が出された。私達は久しぶりに汁物で体をあたためながら涙ながらに箸をすすめた。
 吹田に来てからも心はいつも西宮にあった。倒れたままの仏壇や大切な品々が気に掛かり、安全を得ても気が気ではなかった。又、私達は地震後のショックで四六時中揺れている感覚が抜けず、ほんのわずか風で窓が揺れても「地震!」と叫び一ヶ所にかたまった。
 引っ越して一週間ほどして、父のいとこが亡くなっていたと分かるが、お葬式は済んだ後であった。情報伝達の状況の悪さがもたらした、悲しい結果だった。私はその後学校へ行くが、皆に死んでいたと思われていたらしく、会う人会う人に涙で抱きしめられ、生きていたことに深く感謝した。
 現在、被災地の神戸大学に通っているが、皆被災者であり、自分よりひどい被害を受けた方々が大勢いらっしゃるため、地震の話題にはあえて触れない。しかし六甲台の眼下に広がる復興の兆しが私達大学生を日々励ましていることは確かである。私達は今後、この町の復興のために生きて行くのだという決意を日々大きくしながら勉学に励んでいる。


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