おかえり

          村上 正樹 十七歳 高校三年生  神戸市須磨区

 僕はあの日あの人達のあの顔を一生忘れないだろう。あの日とは地震後、僕の家族がもう明日から家に帰ると避難所で同じ部屋だった人達に伝えた日だった。同じ部屋で生活を共にした人は三十人ぐらいいたのだが、みんながみんな、「よかったね」と笑顔で声をかけてくれた。本当はうらやましいのにそれを見せずに笑っている、僕にはその様子が痛いほど感じ取れた。その人達に見送られて、うれしい気持ちと、うしろめたい気持ちが混ざってなんともいえない熱い思いが込み上げてきて、避難所を後にしたあの日が今でも昨日のことのように思われる。
 地震が起きた一月十七日の朝、僕はちょうど修学旅行中で、信州にいた。なにげなくテレビをつけてみると、目の前には長田の街が黒い煙を出して燃えていたり、あの阪神高速道路が横倒しになっていたりと、信じられない光景が次々と転がり込んできた。はっと家族のことが気になり、急いで宿舎の電話コーナーへ行くと、長蛇の列ができていた。みんな不安な様子を隠し切れず、順番待ちの間、足踏みをしたりして、そわそわしていた。スキー実習の時以外はずっと部屋にこもってテレビを見ていたが、その間にも死者の数は増えていき、何度家に連絡しても電話のつながらない僕はどんどん不安になっていった。
 幸い、三日目の朝、須磨警察署の方がわざわざ宿舎に僕の家族が北須磨小学校に避難していると電話で伝えてくれた。早速、僕はその北須磨小学校へ電話をかけた。父さん、母さん、姉ちゃん、家族全員と一言ずつ話をすると、安心して全身の力がすっと抜けていった。
 次の日の晩、声だけじゃなく顔を見たいという思いを胸に、僕を乗せたバスは神戸へ向かった。翌日の昼すぎ、学校に着くと、父さんが迎えに来てくれていたので、すぐに車に乗って家へ向かった。途中、痛々しい光景が次から次へと目に飛び込んできた。
 家について荷物を整理すると、すぐに着替えを持って避難所へ向かった。隣りの家が今にも倒れてきそうだったからだ。北須磨小学校に着くと、五年二組の教室へ連れていかれた。
 それから二週間ほどの避難所生活が始まった。僕が北須磨小学校で生活し始めたのは地震から四日目だったのだが、もうすでに同じ部屋の人達は疲労しきった様子だった。でも、みんな疲れた体と心にムチを打って、一生懸命、今、自分に出来ることをやっていた。一見いけず(意地悪)そうなおばさんは、実はとてもやさしい人で、自分の持っている数少ない材料を惜しみなく使って、みんなの冷えた体を温めてくれるおいしいスープを配ってくれた。がらの悪そうな男の人も、自分の部屋の一人一人にちゃんと配給があたるようにと、重たいダンボールを腕をまくりあげてかつぎあげ運んでくれた。冷たい鉄筋校舎の中では、そうした人達のやさしさが一層温かく感じられた。
 最初、避難所での食事は少なく、毛布も少なく、四人で一枚とかだったけど、やがて数も増えてきて復興の兆しも見えてくるようになった。
 僕自身、何か出来るんじゃないかと考え、北須磨小学校の動物広場の動物たちにえさを与えることにした。大根や人参をきざんで兎や鶏にやろうとした時、僕の危なっかしい包丁の手つきが気になったのか、眼鏡をかけた小さい女の子がやってきて、「私がこれ切るから、お兄ちゃんはえさあげて」と、僕の包丁を取って、手慣れた手つきできざんでいった。僕はその子のきざんだ野菜の入ったバケツを持って兎小屋に入り、えさをばらまいたのだが、数十匹いる兎の中には、やっぱり体が弱くてこの食べる物の無かった間に、死んでしまったのもいた。その子は何も言わず、ただ悲しそうな目で、その兎をじーっと見つめていた。その光景は今でも僕の心にはっきりと残っている。
 その他、同じ年頃の子と、大きい荷物を運んだり、小さい子と一緒に便所そうじをしたり、時には部屋の代表として、各部屋の代表者の会合に出たりと、避難所にいた二週間、僕は人間らしく、人と手と手を取りあって暮らしていけたと思う。
 テレビ・新聞では被害総額がいくらだ、などといっているが、僕はお金では得られない何か言葉に出来ない大切なものを手にしたように思う。
 今、僕の家のまわりにはほとんど家がない。僕の家はなんとか大丈夫だったけど、修理費はかなりかかるようだ。生活は苦しいはずなのに、父も母もそんな様子は少しも見せないで、せっせと働いてくれている。
 そんな親を元気づけられるように、又、何年か経ち、僕の家の周りの人達が戻ってきた時に、笑顔で「おかえり」と言えるように、今から明るく前向きに生きたいと思う。


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