サヨナラ日本

       エリザベス・ロンバルド 二十八歳 
           FMラジオ・レポーター 神戸市灘区(米国)

 地震が発生した時、私はスキー旅行から帰宅するJRの列車に乗っていた。武庫川の鉄橋にさしかかった時、地震が襲い乗客を床に這わせた。列車はレールからはずれ激しく揺れた。遊園地の振り子の乗り物に乗っているようだった。私の頭を死ぬかもしれないとの思いがよぎった。
 列車が急停車した。部分的に脱線したが、幸い誰も怪我をしなかった。緊急用の発電機が補助電灯と電源にエネルギーを送り始めた。車掌の声が拡声器からバリバリと音を立てて聞こえた。「皆様、地震です。状況が分かるまでお静かにお待ちください。ご協力ありがとうございます」
 遠くでは、火事がすでに発生していた。人々は車内を行ったり来たりし、ドアが開くようになるまで列車に閉じ込められた。私たち全員は声高に地震の影響について語り合った。その時には誰も地震の被害があんなに大きいとは知らなかった。約一時間ほどして、車掌が新しい指示を車内に放送した。「先頭車両のドアをしばらく開けます。皆さんは自由に外に出られます。ご不便をおかけします」
 私たちおよそ二十人は、軌道に飛び降りたが、まだぼうっとし、工場やアパートの建物を呑み込み続ける火災から目を背けることができなかった。早朝の光が、毛布にくるまった家族や泣き叫ぶ子供たちを浮かび上がらせた。
 私たちは選択の余地なく、十キロほど離れた友人のアパートまで歩いた。バッグを背負い、まだ発生した被害の範囲にも気づかずに、西宮市を目指した。破壊された通りをとぼとぼ歩くにしたがって、荒廃はすぐに明らかになった。
 大きな割れ目が地面を小さく裂き、橋を広げ、高速道路に切込みを入れていた。町はずれでは、一戸建ての家やアパートが倒れていた。悲しいことに、お年寄りほどひどい目に遭った。彼らが住んでいた日本式の古い家はボール箱を伸ばしたように横たわっていた。西宮球場に近い一角では、ラブホテルの一階に一組のカップルが閉じ込められていた。これとは別の近くの建物は、部屋と廊下がむき出して見えるように引き剥がされていた。等身大の人形の家のように見えるこの家の外では、まだ中に閉じ込められている肉親を、家族が涙を流して悲しんでいた。
 ガスの匂いのする空気の中を私たちはまた歩き始めた。途中で仲間の生存者に会い彼らの話を聞いた。あるお年寄りの夫婦は地震の前夜に家具の模様替えをした。地震で大きなタンスが直撃したのは、それまで彼らが寝ていたベッドの頭の部分だったので命拾いをしたそうだ。別の女性は崩壊したアパートの三階から一階まで落ちた。彼女は布団の中でかすり傷もなく救出され、カバーは彼女の頭に引き上げられたままだった。
 私たちの周囲はすべて当惑した面持ちの人々で、パジャマ姿で通りをうろついたり、昼下がりの光の中で座り込んでじっと何かを見つめたりしていた。超現実的な光景がよぎる。一人の男性は、見たところでは彼の周囲の破壊に気づかないかのように、つやのあるトラックスーツで瓦礫の中をジョギングしていた。おしゃれなカップルが一組、エル・エル・ビーンのウエアを着て夙川に沿って散歩していた。そしてこれらの真っ只中で、日本人のサラリーマンたちはむなしく仕事に出かけようとしていた。
 ショックで混乱しながら、私たちはついに苦楽園の友人のアパートにたどり着いた。ゆっくりと私たちは部屋を片づけゴミの山を掃除し、テレビが知らせる死亡者の数を見た。夫が普段なら四十分の距離を四時間かけて神戸からスクーターで来てくれた。その夜、余震が何度も襲い、恐怖と吐き気と説明できない不安定な感情を私たちに残した。
 翌日、私たちは食物と水の配給を受けるために並んだ。私たちの後ろの女性は、きちんと口紅を差し髪の毛をカールしていた。人々は我慢強く、礼儀正しく、控えめに悲しんでいた。サイレンのもの悲しい音がその光景に差し挟まれた。それは戦場だった。
 地震から何カ月もが経過するが、色々な光景が、今も私の頭に急に浮かぶ。夜明け前
の光の中で火事が燃え盛る様子。血まみれの洋服にくるまれた男性。花模様の布団から突き出ていたロウ人形のような足。これらの光景のすべては、いろいろな形で、私たちに命のもろさを思い出させる。
 夫と私は今年の末に日本を離れることを決めた。阪神大震災はその激しさによって、私たちに再出発の機会を与えてくれた。長かった六年の滞在、私は日本が私たちに与えてくれたあらゆるものを思い出す。寛容、喜び、困惑、活力、そして最後に私たちの命。


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