天無情、人有情

          劉 炳芬 三十四歳 留学生 神戸市兵庫区

 半年が経って、被災地で倒壊した建物、道路、港湾などの震災跡がある一方、頑張っている姿、全面的に復興作業が進められる状景が目につきます。
 私も、大学院博士課程に入学した三カ月後、やっと、精神的にも立ち直って、留学生の生活が落ち着いてきました。遅れていたいくつかの実験の一つがよいデータを得て、終わりました。初めて、院生になった喜びをつくづく感じました。
 一生、忘れられない一九九五年一月十七日。静かな夜明け前に、地殻の強烈な振動が起こりました。中国から来日しておよそ三年、私は神戸大学医学部で研究をしながら、二月初旬に迫った大学院入学試験の準備をしていました。
 私はこれまで地震の体験がありません。地震が多い日本に来てからも、日本人でさえそう思っていなかったように、私もまさか神戸に大地震が起こるとは思ってもみませんでした。それでも、あの数十秒間、頭から布団をかぶって、揺れが終わるのを待っていた間に「地震」という二文字が頭の中に浮かんできました。同時に、死ぬかもしれないと思って、とても恐ろしかったです。幸運にも、最初の強烈な振動が終わった時、自分が生きているとわかって涙が出ました。
 私は、中国で医者をしていましたが、私自身の生命について考えたことは、今回が初めてでした。そして、生き抜かなくてはいけないという強い意志が出てきて、幾分冷静になることができました。ラジオで地震の情報が伝えられ始め、私はまず懐中電灯を探しました。留学生活のためあまり家具などもないことが幸いして、すぐ小さいペンライトを一本見つけました。防災の知識を思い出し、そのわずかな光で部屋をチェックしました。あちらこちらに亀裂が入っていましたが、とりあえず壊滅的な被害は見当たりませんでした。
 段々、夜が明けてきて、部屋の中の滅茶苦茶な状況がはっきり見え始め、再び驚きました。いつも寝ていた頭の所にビデオとテレビが落ちており、ビデオは完全に壊れていました。前夜、気分転換のため、寝る場所を変えていました。もし、いつもの所に寝て、それが頭の上に落ちていたらと考えると恐怖心が戻ってきました。台所でも食器棚と冷蔵庫が倒れて、割れたガラスと食べ物、飲料が散乱していて、足の踏み場もありませんでした。
 とても不安でしたが、余震が続けて起こっていたので、けがをしないようにと思って、ダンボール箱を破って、散乱したガラスなどの破片の上に敷いて、少しずつ部屋の片付けを始めました。
 外国人としての私がこれからどうすれば良いのかよくわかりませんでした。多くの中国人がその時、一旦帰国したことを後で知りました。私も中国に帰りたかったけれど、研究室や大学院試験の事が気になって、大学に行くことにしました。
 大学に着いてみると、私の大好きな研究室も滅茶苦茶でした。担当している実験用の細胞が死に、設備や機械が壊れたなどの損害が分かり、悲しくて心が痛かったです。しかし、先生たちと会えて、優しく暖かい言葉を聞いて、感動しました。
 でも、また一人になると、水、ガスも出ない上に、周囲の商店が壊れてしまい、どのように生活すればよいかで不安になりました。外国人なので、情報もあまり入って来ず、どこに行けば水や食料品を手に入れることができるのかもわかりませんでした。又、余震が続けて起こり、揺れる度に建物はあちこちきしむような変な音が出るし、外は消防車や救急車のサイレンが鳴り止むことがありません。
 私は夜になっても、服を着たまま、座って過ごしました。二日間、全然眠れませんでした。途方に暮れていた時に、垂水区に住む知り合いの日本人家族が安否を気遣って連絡をしてくれました。彼らも当然被災しましたが、私に一緒に住もうと言ってくれ、暫く、お世話になることにしました。
 彼らの家にもガスが無かったけれど、みんなと一緒にいると心強くなりました。日本の家族の中に入り、時間が経つに従い、当初思った「中国に帰りたい」という気持ちは、ほとんど薄れていったと思います。研究室の先生や他の知り合いの日本人の友達もお米、水、プロパンガスなどをもってきてくれ、孤立感からくる不安はなくなっていました。私は二週間遅れで行なわれた試験になんとか合格し、研究室の整理も大体できました。
 だが、私にとって、震災の直後にわからなかった損害が時間が経つに従って出現し、影響も根強く残りました。まず、研究用の冷蔵庫の電源が何かの原因で切れたままなのを、一カ月を過ぎてから知りました。その内に、半年かけて作った実験用のサンプル、抗体が駄目になりました。又、壊れた機械も修理不能で、いくつかの実験がストップしています。
 ショックを受けた私ですが、その上に、家計面でも苦しくなりました。私の借りていた部屋は一部損壊ですみました。僅かなアルバイトがなくなった上、保証人の家が全壊したので、援助を受け取り難くなりました。奨学金を貰っていなかったので、生活が大変でした。
 日本の生活費と中国の生活費との差がありますので、長期的な仕送りを受けることが現実的にできません。これから、勉強をやっていくため、どうすれば生活費ができるか私には生活の中で一番困ったことになっています。
 焦っていらいらしていた時に、雪中に炭を送るように、大学留学生センター、医局、日本の友人、各団体が援助の手を差し伸べてくれ、見舞金、勉学奨励金等を頂き、神戸市留学生奨学金も授かりました。どうにか日本で研究を続けられる生活費がでるようになりました。その他、新しい研究用機械も申請中です。
 今回の予期せぬ天災に際して、私はいろいろな日本の方々と話したり、お世話になったりして、日本人の友好、優しさを深く感じました。心から感謝の気持ちで一杯です。日本の皆様が頑張っている姿を見ますと神戸の美麗、清潔、活気は必ず戻ってくると信じています。これからも私の第二の故郷である神戸で日本の皆様と一緒に頑張っていきたいと思っています。


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