壁時計

      ジョン・メトカーフ 六十八歳 英語教師  神戸市東灘区(カナダ)

 オフィスビルの壊れそうな壁にかかっている壁時計(口絵写真)を見つけたとき、私はそれが神戸市民の阪神大震災に対する反応を象徴しているように思えました。時計は揺すられ調子が狂っていますが、まだ動いています。本来の機能を果たそうとし、人の役に立とうとしています。地震の話は、崩壊したビルや壊れた橋、粉々になった高速道路が主役ではありません。むしろまず、人々の話なのです。
 地震の揺れを経験した後、私と妻は六甲アイランドの学校へ向かいました。その日の昼には、本土へ架かる橋がどれほど傷んでいるかを見ようと、橋まで自転車を走らせました。労働者のグループが休息し、昼食をとっていました。私はパンとチーズを食べようと道路の反対側に座りました。若い男がグループから離れて私のもとへ来ました。
 「おなかはすいていませんか」と、彼はたずねました。
 彼がなにを言おうとしているのか分かりました。もし私がイエスと答えたならば、彼らは私に食事を分けてくれるつもりです。私は大丈夫と答え、
 「あなたは地震で被害を受けましたか」とたずねました。彼は微笑みました。両親は元気で、ちょうどガールフレンドからも大丈夫だったと連絡を受けたところだそうです。
 「結婚するのですか」と、私はたずねました。
 彼は明るく笑い、「そうするつもりです」と言いました。
 大災害の真っ只中にも、未来への計画がありました。
 地震から三日目の木曜日に、私は自転車に乗って損傷した橋を横断して本土へ行きました。なんという破壊!
 いたるところの荒廃!
 歩いたり自転車をこぎながら、私のすべての感情は極限に達しました。しわくちゃになった家、押しつぶされ崩壊したビル、粉砕された車道、壊れた車、命を失った彼らの悲痛なメッセージが聞こえました。希望と夢が打ち砕かれていました。
 何年も前、娘はピンクと白色の綿毛のうさぎの人形を持ち、リッキーと名付けていました。長い間、娘はそばにリッキーがいないと眠ることができませんでした。誰かの住まいだった瓦礫の集積を通り過ぎる時、私は半分うずまった、同じピンクと白色のうさぎを見ました。目に涙があふれました。どのような少女がリッキーと寝ていたのでしょう、そしてその子は今どうしているのでしょう。
 交差点で交通整理をしている警官のそばを通り、道を横切るために待っていました。警官は小さな声で私に話しかけました。
 「神戸にお住まいですか」
 「はい。三年住んでいます」
 「どこかへ移るのですか」
 「いいえ。私たちはここにとどまります」
 柔らかい微笑みと共に、優しい輝きが目に現れました。
 「お気をつけて」
 フラワーロードまで来て、私は壁時計を見つけました。それがまだ動いているのを見て、心がなごみました。それは「人生は続き、時間が癒してくれる」と語りかけているように思われました。
 土曜日までに、私たちの学校の大部分の人々は去って行きました。バンに乗ったわれわれ七人は、国道2号線に沿った長く曲がりくねった道を走り、ゆっくりと大阪へ向かいました。窓の外の歩道には、三列または四列の隊列が、着実に進んでいました。
 「避難者たちを見てごらん」と、仲間の一人が言いました。私はそれを見て、何かがおかしいとすぐに分かりました。
 「彼らは避難者ではない。大阪の人たちだ。彼らは荒廃した土地に、援助や励ましや必要物資を運んでいるのだ」
 その瞬間に、私は人間として大切な思いやりや関心の真の姿を見ました。このことは驚きであり、私にはすべての中で最も感動した出来事でした。
 約一カ月後、私は近所の生協に行きました。島から出られなくなっていた顔見知りの店員が、ちょうど帰ってきていました。彼は私を見つけ、すぐに寄って来ると、いつもの微笑みをたたえて、挨拶をし、
 「いつ帰ってきたのですか」とたずねました。
 「私たちは、どこへも行きませんでした」、私は少し自慢げに答えました。
 壁時計は動き続けている。神戸の人々は生活に耐えている。地震の経験は恐ろしかった。しかし、これらの勇敢な人々といくばくかの苦労を分け合い、彼らの目覚ましい復興になにがしか関わり続けることを、私は喜びと共に永遠に記憶するであろう。


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