チョゴリ

          朴 亜希 十三歳 中学二年生  尼崎市南塚口町(朝鮮)

 まだ年が明けてまもない一九九五年一月十七日。午前五時四十七分。ドドーンと下からおしあげてくるような大きな音と、大きな衝撃が起こりました。そのたった二十秒程で、たくさんの人が家や財産、そして一番大切な家族や愛する人をなくす事になったのです。
 私も、この地震を経験した人間ですが、幸い家は残っていました。しかし、私のお父さんはベットで震えて泣いていた私を助けてくれる時、タンスの下敷きになって、足に大ケガをしました。お母さんは、顔が真っ青になって気を失ってしまいました。お姉さんは、お母さんを助けました。お父さんは何とか自力で起き上がって私の手を引いてくれました。
 こうして家族が四人が、無事に外に出る事ができました。
 私は恐さのあまりブルブルとふるえて、涙が止まりませんでした。近所の人達が、私に上着をかけてくれて、「落ち着くんだよ」と言ってくれました。
 まんじりともせず、むかえた午前八時。ようやく太陽が見えてきました。私達は、家に入ってその光景に驚きました。全ての物が倒れて、私の大切なチマ・チョゴリがピアノの下敷きになっていました。私はそれを見た瞬間、唇を噛みしめてこぶしを握りました。
 何とも言えぬ気持ちでした。
 私は、このチョゴリが大好きでとても大切に着ていたのに……。
 お母さんはそんな私を見て、お父さんに「ピアノを先に起こしましょ」と言いました。ようやくチョゴリを手にした私は、とてもとても嬉しかったです。
 テレビをつけると、長田と神戸がうつっていました。きのう、友達と遊びに出かけたばかりの神戸は、昨日の活気は見られず、ただ倒れている家やお店、あとは火の海でした。
 泣き叫んでいる人、がっくりとうなだれている人、やり切れない気持ちを物にぶつける人、それは住み慣れた場所を奪われた人達の姿でした。私も思わず泣いてしまいました。
 こんなにもたくさんの人が悲しんでいるのに、私は何か出来ないものかと考えました。そして、私が悩んで決めたのは神戸のしんせきに、生活用品を運ぶことでした。
 三日後、私は出発しました。
 いとこと一緒に一生懸命自転車を走らせました。西宮を過ぎ、もうすぐ神戸という時に自転車のチェーンが外れました。こんな時に限って一度も外れたことのないチェーンが外れるなんてと思いました。それでもなんとか神戸の親戚のところに着いた私は、とめどもなく涙があふれました。
 親戚は三日間、何も食べていない様子で、私の手を握り「ありがとう」を繰り返しました。
 私は、その時思いました。みんなが協力して力を出し合えば、必ず元通りになると思いました。
 みんなが助け合い、そこでまた国境を越えた助け合いも生まれました。私達、朝鮮人と日本人がお互い助け合い、今まで知らん顔をしていた人達とも、話をして仲良くなりました。
 またゼロからの出発になったけれど、人々が助け合えばゼロがイチになり、だんだん大きな成果を得られると思います。
 今も、余震が続く日々ですが負けずに頑張りたいと思います。
 もう学校にも行けるし、水も出るし、ガスも出るし、また平凡な幸せが戻ってきました。必ずもっと汗を流して、復興に向けてがんばりたいと思います。
 みんなの夢が叶うように、未来を信じて。


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