郵便局の仲間

          大堀 美重子 四十九歳 漬物製造業  神戸市長田区

 震災直後、奈良に住んでいる姉からミカン三箱に日用品、衣類を送ったと連絡があった。一週間経っても十日待てども届かない。姉から心配の電話も再三。じっと待っておられず、長田郵便局に問い合わせに行く。
 破損した局の裏手に廻ってみると、大小の箱が山積みだ。全国各地から送られた見舞いの品々だ。係の人に訪ねる。「さあ」頼りない反応。「私も探します」。荷物のなかに入った。やっと一個探し出し頭をあげたその目の前に、「バイト募集」の字が飛び込む。「私にもできる仕事ですか」「行ってみたら」と返ってきた。私は夢中でひび割れた階段を上り、職員の方にバイトを申し込んだ。「明日から来れますか」「ハイ!」即答する。二月二日のことだった。
 明日から働ける。それに第一収入が入る。何とも言い表わせない喜びをかみしめながら、ルンルン気分だ。
 主人は菅原市場の再建の為といって、朝から晩まで市場の詰め所にでかけている。一体どんな方向で進んでいるのだろうか。母も日が経つにつれ、イラ立ち、不安な気持ちが時々爆発し、主人の帰りを待っては、いつ市場が建つのやと、泣いたり、怒ったり。
 私も同じ気持ちだ。私も主人に話したいけれど、母も不安や、不満をはきだしているのにこれ以上話しかけてはうるさがられ、怒鳴られるに決まっている。そう思って主人と母の対話を聞きながら、少し離れた場所で床をとる。主人と何も話をしないことは珍しくなかった。体中、地震がくっついていて暗くやり切れない毎日だ。
 こんな状況のなか、バイトに行くことを母に伝え喜んでもらった。我が家にともった小さい灯だ。毎日、焼け跡にたたずんでいた私の生活は一変した。御蔵小学校の避難先から朝食に配られた菓子パンと牛乳をリュックに詰めて、かん没した大開通を横目に兵庫郵便局の三階に通った。
 高校生から私の歳まで。三十人近い女性たち。私の所属は第一集配課二班。うれしかったことに、菅原市場も配達区域の橋野さんが私を覚えていてくださっておりとても心強かった。この頃は郵便物も思うように配れるはずはなく、手のつけようのない程山積みだった。
 「三週間程のバイトです」と言われていたが、十日になっても仕事があった。でも月末になると二、三日休みとなり、仕事があるようなら電話するとのこと。この空白は何とも不安で落ち着かなく心配だった。
 私達の仕事は転送届けを出している人の郵便物を避難先に届くように住所を書き直すこと。同じ班の内田さんはクリーニング業。全壊で店は閉めた。機械がとても高く、商売は続けられないと嘆いている。ご主人は中央市場の魚屋で正社員として働いておられる。永友さんは中華料理店。ご主人と二人で働き、近くに新築のマイホームも購入。しかし借家の店が全壊で、ご主人は震災後五日目にしてタクシー会社の社員に。しかし将来はまた店を開きたいと目指しておられる。それぞれに子供も似たり寄ったりの年頃。局では共に泣き笑い、家族のこと、震災のことなど話し気の合う親友となった。震災以来がんばらねばと気負っていたが、職場に来ると気持ちが和らぎ心の安らぎの場となった。
 そうこうしている内、やっと市場が五月開店を目標に工事にかかった。毎日現場を見に行く母。それに並行してプレハブ住宅を建てることにした。子供二人の家族五人では店の部屋だけでは生活できないためで、私の住んでいる地域は市の区画整理に指定されているので本建築ができない。
 里の弟がもし建てることになったら協力すると早々に言ってくれていた。電化製品も原価で購入できるからとカタログも送ってくれた。それなのに、主人も母も地元の人に頼むという。「なぜ」この大震災でつらい苦しい思いで一杯でいるのに。近所の電気屋さんも、よその人から買ったからといって修理はできないとは言わないだろうに。私は荒れ狂い、二人にぶつける。
 弟の好意を無駄にするのかとくやしくてくやしくて、腹わたまで煮えくり返った。その夜は泣けて泣けて、つぎの日、目ははれ上がり、頭も胸も沈み仕事にいく気もしなかった。須磨の海岸で一日中海を眺めていた。暑く長い一日だった。
 後、弟にこの事を告げた。「けんかはするなよ」「でもお金は大事に遣ったらよかったのにな」と空を見上げた。むなしかった。
 知人の紹介で中古の二階建プレハブを譲ってもらい、各室にテレビ、冷暖房、トイレも上下に付けた。内装は本建築並だ。かれこれ一千万円ちょっと。我が家の会計係の母の貯金通帳からどんどんお金が消えていく。痛い出費だ。震災さえなければこんなことにはならなかったのに。私の大事なヘソクリ貯金も一人眺め喜んでいるわけにもいかなくなった。市場は復興したものの肝心の周囲の人々は仮設に行ってしまった。
 一日も長く郵便局に勤められますように……。


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