よしの食堂

          溝口 和夫 六十八歳 清掃会社勤務  神戸市中央区

 阪神大震災の恐怖は今もって忘れることができない。そして九カ月も経った今日でも、時々余震に脅かされる。神戸ほど災害は少ないし暮らしやすい街はないと自他共に誇っていたので、あの大地震は夢想だにしなかった。そして阪神間の市民には大なり小なり、その被害が及んでいる。
 地震発生後の反省点として先ず何処に避難してよいか、広報車も全く来ず困惑してしまった。水害に対する対策は以前から検討されて、それなりの注意もなされていたが、まさか地震に見舞われるとは思わなかった。
 そして余りにも各家庭とも道具や荷物が多すぎるということが分かった。タンスが倒れたり、高いところの道具が落ちて怪我をした人が多い。地震発生後寒さに震えながら、近所の人達と路上で恐怖におののいた一瞬を語り合った。
 その中で感心した光景がある。お年寄り二人だけの家で、ご主人は病気で寝たきり、奥さんが倒れた家具で頭を怪我し、片方の腕も骨折して助けを求めていた。それを聞きつけた近所の青年や女性が家から助け出し、傷の手当をした上、勇敢にもその中の娘さんが運転して川北病院まで瓦礫の街の中を運んで入院させたのは立派であった。人情の深さを嬉しく感じたものである。
 電気はその日につき、助かったが、長い間の水道・ガスの不通は本当に辛かった。私は家主さんである元町温泉の一角を借りて小さな食堂を経営していたが、幸い店は難を免れ割合早い時期に営業再開することができた。街行く人々はしょう然としてなんとなく落ち着きを失っていた様だが、我が店に立ち寄り、温かいおでんやカレーライスに生き返った心地がしたと皆喜んでくれたものだ。
 しかし残念なことに家主さんの銭湯は空間が多いため、再起出来ぬほどに損害を受けた。とうとう家主さんは営業再開を断念し、市に被災家屋の解体を依頼することになった。当然ながら我が店も解体の対象になり三月末にあっけなく作業は終わった。
 被災直後の私の心境は、長い間食堂を通して多くのお客さんにも親しまれていたので、店を再開したい気持ちで一杯だった。しかし家主さんにも色々事情があり、解体後の空地に仮設店舗の再建はできなかった。こうして三十年近く同じ場所で商売をさせて戴いた「よしの食堂」も三月末をもって営業に終止符を打った。
 以後無職となり途方に暮れたが、気を取り直しマンションの清掃作業の仕事に行った。しかし一家を支える収入には程遠い賃金なので思案した。新聞と折込みの求人広告を頼りにあちこち職を探したが、六十八歳になる私にはななかなか職は見つからなかった。
 その時、たまたま新聞で見た神戸中央卸売市場の清掃部門を請負っている会社に面接に行った。私の食堂が営業出来なくなった話を聞いた所長さんの「みんなえらい目にあって大きく人生設計が崩れましたなあ。うちの会社でよかったら辛抱してみますか」との優しい一言で決心した。現在では仕事にも慣れ、毎日元気で楽しく働いている。健康的で良い職場に就職出来たことを心から感謝している。
 震災のために、終生の仕事場と思っていた食堂は失ったが、周囲の人々や職場の人達の暖かい愛情と優しさを沢山戴いている。辛いのは私だけではない。多くの市民が家を失い、尊い命や財産を失くした人も多い。今も待機所や仮設住宅で不自由な生活を送っている被災者が一日も早く元の生活に戻れることを心から願っている。
 阪神大震災の貴重な体験をこれからの生活に生かして、妻と共に健やかな生活を送りたい。


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