ミシン

          薄木 智子 三十五歳 主婦  神戸市長田区

 空が高くなった。近頃私は空を見上げることが多くなった。ややもするとうつむきがちになってしまう自分自身への防衛反応だろうか。今年は四季がはっきりしている。大雨、猛暑、朝夕に急に訪れた秋の気配。このめりはりのある季節が余計に月日の流れに加速をつけているように思う。
 平成七年一月十七日火曜日の早朝、私は神戸市須磨区の自宅で幼稚園児の長男のためにお弁当を作っている最中だった。突然台所の床が盛り上がり、まるで怪獣に家をもてあそばれているかのように激しく振り回され、冷蔵庫をはじめ食器棚など全てのものが私めがけて襲ってきた。わずか十数秒の出来事だが、その時はもっともっと長い時間のように感じられた。
 二階から主人の声が聞こえた。子供二人と共に無事な様子。そこでやっと我に返った。動けない。ガスコンロにかけたばかりのやかんの水が私の体をぬらし、寒さと恐怖で唯一人、闇の中で震えた。全壊の家から何とか自力で脱出し家族が揃った時、空は明るくなっていた。昨日までの見慣れた風景が一変していた。しかし私達家族も含めて避難する人の中にはパニックに陥っている人は一人もいなかった。なぜか空虚な妙な精神状態のまま、駆けつけてくれた主人の弟の車に乗って垂水区へ避難した。
 被害のなかった弟夫婦のマンションで余震に怯えながらテレビの画面を見つめていた。長田区が火に包まれていく様を見て茫然とした。主人と私はケミカルシューズ産業の一端であるミシン加工業を営んでいた。その仕事場があるあたりに火が広がっていくのをテレビは映し出していた。
 翌日、じっとしておられず、50ccのバイクに主人と二人乗りして仕事場に向かった。垂水から旧神明を走り須磨の離宮公園前まで来たあたりが天国と地獄の境目だった。通ることのできなくなった道を迂回しながら長田の仕事場にたどり着いた。仕事場は残っていた。全身の力が抜け涙が溢れた。
 仕事場の中は想像以上にひどい状態だった。土足で上がり、ミシンなどの機械を見た。壊れてしまったものも数台あった。床にメーカーから受注した仕事の甲(靴の甲の部分)が散乱し泥だらけになっていた。主人は取引先を見にバイクで出かけた。数時間後、帰ってきた主人は言葉少なに「取引先数社が全て駄目だった」と私に告げた。
 地震から数日後、二人の子供を取りあえず加古川の実家に預けた。七歳の長女と五歳の長男。今まで子供と離れて暮らしたことのない私は、家を失い仕事のめども立っていないその時、何時子供を迎えに来ることが出来るのか分からず、帰りの車の中で涙が止まらなかった。この地震で肉親を亡くした多くの方に申し訳ないと思いながらも、家族がバラバラになるのは本当に辛いことだった。
 ケミカル産業の裾野は広い。金型屋、裁断屋、内職屋、ホットメルト屋、ミシン場と呼ばれる仕事仲間と連絡を取り合うのに主人は懸命だった。ケミカル産業のメーカーの殆どが全焼、全壊で、操業不可能となった。四十三歳の主人は親の代からミシン一筋に来た人だ。「人が歩く以上、靴は要る」と言うのが口癖の主人が何も言わなくなった。
 取りあえず半壊の仕事場を住めるようにしようということで、弟夫婦のマンションで寝起きさせてもらいながら仕事場の片付けに専念した。崩れた屋根と外壁のガレキを何回となく運び、ブルーシートを張った。とにかく子供を呼び戻したい一心で主人と私は身体を動かした。家族が皆揃ったら何とかなると思った。
 地震から一カ月と数日が過ぎた頃、子供二人を引き取りに行った。二月下旬、長女は二度目の引越しをし、長男も幼稚園に通い始めた。
 春になった頃、ケミカル産業のメーカーが七割復旧したという明るい話題が新聞に載っていた。事実その時は、メーカーも在庫品での仕事があり、我が家にも仕事が入り、失業状態から立ち直ったかのように見えた。
 六月下旬、何とか梅雨前に仕事場の修理が完了した。仕事は細々と入ってくるが先行きは見えない。仕事場の約六畳の休憩所に親子四人身体を寄せ合って暮らしてはみても、やはり子供のためにも家を再建したいという思いが募り、須磨の自宅解体後に再建を決めた。
 復旧したメーカーも在庫分の仕事が終わった後、開店休業状態となり、秋に変わりつつある今もあまり活発な動きはないが、主人は内職屋の仕事仲間と組んで動いているメーカーを探し、少しずつ仕事を取っている。
 震災前の三分の一程の収入で生活には不安がつきまとうが、一時はミシンを辞めることも考えた主人が、「長田のケミカル産業がいつまでもこのままの訳はない」とミシンに賭けている。失ったものは大きいが、かけがえのない家族と共に明日を見つめて歩いていきたいと思う。


[ 目次へ | ホームページへ ]