鍵

          横垣内 美鈴 四十歳 看護婦  西宮市山口町

 一月十六日夜、私の家では、主人が神戸市東灘消防署で二十四時間の当直勤務のため留守で、中学一年生の娘と小学校四年生の息子を両側に、いつもの様に川の字になり、「明日は学校だからもう寝ようね、おやすみ」、そう言って電気を消し眠りについた。
 どれくらい眠っただろう、私はハッと目覚め今何時位だろうと思った途端「ズシーン、ズズズ、ガタガタ」、地震が来た。すぐおさまるだろうと思ったのは甘かった。揺れはますます強くなり、主人の居ない心細さと地震の恐怖で身体が動かず、ただ両脇の子供を抱え天井を向いたまま、じっとしているだけだった。結婚前、台風など大災害の時には、主人は家に居ない。それを承知で結婚したはずであったが、やはりこんな時は主人が側に居てくれたらなあとつくづく思う。
 数十秒後、地震は止まった。それと同時に停電になり、暗闇の中を余震を恐れ、外に出た。しばらくして下の子が、
 「お母さんガスの元栓閉めた? 電気毛布のスイッチは切った?」と聞いた。
 こんな時は子供の方が冷静なようだ。その言葉にハッと我に返った。私がしっかりしなくてはいけない、そんな思いが湧いてきた。
 暗闇の中で車のラジオを聞いてみると、「淡路島の北淡町が震源地で、神戸市内にかなりの被害が出ている様子」とアナウンサーの声が流れた。今度は、主人や東灘に住む身内のことが心配になってきたが、六甲山の表と裏、連絡も取れずに時間が過ぎた。
 私は、看護婦として、近くの病院に勤務している。当日も出勤予定であり、大勢の人が怪我をして来院するのが予想される。こんな時に子供を置いて出勤するべきかどうか、このまま子供のそばに居てやるべきではないか、もし今出掛ければ子供達に、一番不安な時に両親が居なかった事で、心の傷が残るのではないかと、心の中で葛藤していた。
 そんな時、隣に住む義弟夫婦が「子供達は、預ってあげるから」と言ってくれ、心の中で感謝しながら、いつもより早く出勤した。病院に着くと、屋上からの給水パイプが破損し、一階と二階が水浸しになっていた。レントゲンやその他の機材は使用できるだろうかと心配しながら床の水を雑巾で拭き、まずは掃除から病院の一日が始まった。
 幸いライフラインの方は、自家発電とプロパンガスが使用でき、水だけが使えない状態であった。掃除が終わらないうちに、壊れた窓ガラスで足を切ったり、倒れてきたタンスの角で頭を切った患者さんらが次々と来院され、慌ただしく処置を行った。
 水が使えないため、縫合器具も洗浄できず、どんどん汚れた機材が増え、このままでは材料不足になるのではないかと思われたが、昼頃には水道も使えるようになり安心した。神戸や西宮市内の医療機関の様に深刻な事態にならず、一日目がいつもの時間より遅く終了した。
 二日目に入ると地元の患者さんではなく、神戸市内では怪我人が多すぎて治療ができないからと、六甲山を越え受診される方や身内のところへ避難してきた人が増えた。その殆どが、傷口のパックリ開いた人や骨折など、重症者であった。患者さんは「市内は地獄で、こちらは天国だ」という。その言葉や病状に改めて市内の状況の深刻さを知った。
 地震から三日目、東灘区に住む姉から、やっと通じた電話で、伯母と従姉妹の主人、その子供の三人が亡くなったと知らされたが、行くことも出来ずただ冥福を祈るしかなかった。
 六日目、髭は伸び、手足はススで黒く汚れ、やつれた顔をした主人が帰宅した。眠る暇もなく、入浴と食事を済ませ、四時間後、
 「今度はいつ帰宅できるか分からないから、子供達と家のことは頼む」と言い残し、バイクで職場に帰っていった。その後ろ姿に、このまま家に居てほしいとも思ったが、どうぞ無事でいて、と願わずにいられなかった。
 地震から八日後、姪が神戸市内の避難所を捜し回って見つけたというお年寄りが受診された。レントゲン撮影の為ズボンを脱がせてあげようとした時、腰の辺りでチャリンと音がした。家の鍵らしい物が付いていたので、
 「ズボンにおうちの鍵が付いていますね」と声を掛けると、その方は目に大粒の涙を溜めて、
 「いつも落してはいけないと思い、しっかり紐で、ズボンに括ってあったけれど、家も壊れてもう必要がなくなってしまった。その瓦礫の中から助かった」と泣かれ、私もその方の辛い気持ちにかける言葉もなく手を取って一緒に泣いてしまった。
 あの日からもう数カ月が経過したが、あの日の地震を忘れる事なく、いつまた来るかもしれない地震に備え、私達親子は今日も枕元に懐中電灯と衣類を置いて、いつものように川の字になって眠っている。


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