父の目

          山田 ひろみ 三十歳 会社員  神戸市中央区

 三十歳の誕生日を十三日に迎え、心機一転、今年は頑張るぞと私は心で誓っていた。誰もが新しい年に期待と夢を描いていたはず。そして四日後の一月十七日。たった数分で大切な人や大切な物、大切な家が破壊された。ものすごい音と揺れと恐怖の中、
 「何やこれ! お父さん、お母さん」
 「地震や! トイレに逃げるんや!」
 真っ暗闇の中で叫び続けた。一階には片目の不自由な父がいる。必死の思いで下へ降り、父を探した。タンスの下にいた。自力で出てきた父と母と私は着の身着のまま外へ出た。めがねなしでは何も見えない父と私は、少し明るくなりかけても闇の中だった。
 とりあえず近くの公園に行き、朝が来るのを待った。大変寒い中、誰かがかけてくれた毛布に三人がくるまった。まだそのときは、自分の家が潰れていることさえ知らなかった。どこの家も同じ揺れを感じ、誰もが公園に避難していると思っていた。ただただ、またあの揺れが来るのかと思うと、不安で仕方がなかった。少し落ち着いてきて、揺れがおさまったので様子を見に家に戻った。
 「ガーン!」。頭を殴られた気分だった。自分の家が潰れている。周りの家はあるのに、我が家だけ大きく傾いて、隣の家にもたれている。この現実を見た時、「どうして自分の家だけが……」そんな気持ちが押し寄せてきた。しかし、私はその時もまだ、すでに大勢の犠牲者が出ていることを気づく余裕さえなく、うろたえていた。
 公園から近くの中学校へ避難し、水と食料が届くのを待ち続けていたが、最初に運ばれてきたのは、悲しい現実だった。次から次に運ばれてきた人たちはみな、悲しみの毛布にくるまれていた。悪い夢を見ているのだろうか? いやちがう。悲し過ぎて泣けない現実が目の前に起こっているのである。カンカンカンという、亡くなった人達のための棺作りの音を私は決して忘れないだろう。
 そうして、四カ月間の避難所生活が始まった。生活環境が全く違う人々の集団生活がスムーズに行われるわけがない。当番を決めて食事を取りに行くのも、問題が出てくる。毎日、明日が本当に来るのか不安だった。この先一体どうなるのか? 心配ばかりで眠れない日が続き、途方に暮れた。
 お金の問題、家の問題、両親や自分自身の今後の問題、当面の健康の問題、何から片づけていかなくてはいけないかわからない。当たり前だった事が当たり前ではなくなる。今まで築き上げてきた、小さな平凡な幸福をたった数分で失った悲しみ。いろいろな思いで押しつぶされそうになった。でも自分がしっかりして、両親を助けていかなくてはと思い頑張った。
 きっと、みなそうだったと思う。九カ月たった今もみな必死で頑張っている。愛する人との別れがありながらも、みな頑張っている。仮設住宅に入った人も、まだ入れない人も、みな必死で生きている。
 私の父も避難生活の中で身体を壊した。見えていた方の目が見えなくなった。六十日間の入院の間、二回の大手術。回復は四分六だと言われた。全く見えなくなる確率が高いのだった。母と私は地獄の底に叩き付けられた気分であった。この世にやはり神様はいないのであろうか? 毎日そう思いながら会社と病院と避難所と家の片づけ、解体等の出口のない迷路をぐるぐる回っていた。
 ほんとにしんどかった。もし父の目が見えなくなったら、私が父の目になってあげよう。何もいらない、ただ父の目が回復するようにとばかり毎日祈っていた。
 あれから九カ月たった。幸いにも父の目は見えるようになり、私は1Kの仮設で一人で生活している。この九カ月間、私はものすごい体験をしてきたように思う。今まで自分一人で生きてきたと思っていたけれど、実は周りの人や物に生かされてきたんだと気づいた。そして何が本当に大切で何が必要でないのかも初めて知った気がする。
 この地震で大勢の人達が身体も心も傷ついた。周りは復興、復興と言い、少しずつ新しい建物が建ち始めた。急ピッチで新築の家があちこちに見られるようになった。
 もとの神戸に戻すことも大事だけれど、傷ついた心はそう急ピッチに戻らない。ゆっくりあせらず、いやしていけばいいと思う。ゆっくり自分のペースで「生きる心」を復興させていきたい。
 夜は必ずあけ、朝は必ずくる。希望を失わず、誰かのために生きていたい。そして誰かの大切な人間に私はなりたい。一人でも多くの人の……。


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