少年野球


          服部 登志子 三十四歳 主婦 神戸市須磨区

 大地震からもうすぐ九カ月になろうとしていた十月十五日、須磨ニュータウン地区の少年団野球チームの運動会が行われた。
 例年なら大きな公園を使用していたのが、震災で近くの公園や空き地には仮設住宅が建設され、S小学校の校庭に各チームが集合した。少年野球と関わりを持つようになったのは、娘が四年生に進級し、太り過ぎのイエローカードを学校から渡されたのがきっかけだった。日頃は勝気な娘も紅一点、野球のやも知らない未知の世界に一人で飛び込む勇気がなく、元高校球児の父親に同行を求めた。
 「お父さんも時間があれば練習を手伝って頂けますか?」と聞かれ「はい」と返事をしたのが運のツキで、夫は経験を買われ、娘のいるチームの監督を引き受けることになってしまった。
 今まで眠っていた野球への情熱が再び甦ってきたのか、仕方なく入部した娘よりも父親のほうが熱心だった。娘の通う東落合小学校は学校開放(校庭を市民に開放する)に指定されているが、校庭で練習できる日曜日も月に二度も使用できればいいほうで、練習場所も十分ではなかった。
 それでもチームの部長やコーチは休日を返上し、子供たちとともに汗を流して野球を楽しんでいるように見えた。毎週、日曜日の朝、父と娘が水筒にお茶を入れ金属バットを持って出掛けて行く後ろ姿を微笑ましく見送り、下手でもチームのお荷物でも続けてくれたらと心の中で祈る思いだった。最初の頃は娘の荷物はいつも友達からポツンと離れた位置にあって疎外感を感じたが、時間の経過とともに、そんなちっぽけな心配もかき消された。
 年が明け「今年も頑張ろう!」と初練習を開始した三日後、大地震が阪神間を襲った。家が壊れ、高速道路が倒れ、自分たちが生きているのさえ不思議な気分がしていた。幸い、須磨ニュータウン地区では大きな被害もなく水だけが不便な状態だった。寒さと恐怖心で眠れぬ夜を何日、過ごしただろうか? ただ余震に怯えながら生きていたように思う。鉄道が破壊され、仕事を持つ人達はイライラと焦燥感に包まれ野球どころではなかった。恒例の行事も中止せざるを得なかった。
 土曜日の午後と日曜日の練習、カレンダーに塗り潰された予定表が空しく見えた。
 最初は「しんどいから練習休みもたまにはええなぁ」とのんきに構えていた娘も時間を持て余しはじめてきた。
 マスコミは「復興、復旧」の文字と「WE LOVE KOBE」を合言葉にして、生まれ変わる神戸を訴えていた。
 主人が監督になり、父と娘が野球に取り組んでいる休日に慣れて、それに伴う人間関係に楽しさと疎ましさを感じて、私の中に葛藤が生じていた時期でもあった。
 「ボランティア」。今までその言葉は遠くにあり、福祉的なイメージしか思い浮かばなかった。しかし、少年野球に参加したことにより、主人が大切な子供さんを預かり、遠征や移動のための車での送迎にも責任を持たねばならなくなって、その立場の重大さに面食らった。
 帽子も自費だし、自家用車を提供しても自己負担。その反面、責任だけは追求される矛盾。「優勝しなくてもいいから、事故と怪我だけはしませんように」と祈りつづけた。お茶当番や試合の応援に必ず参加する親と、まったくノータッチの親とがあり、それを陰で支える難しさもあった。そこには純粋な子供達のスポーツでありながら大人達のしがらみも存在していた。正直、解放感が心の中に蔓延し始めていた。
 そんな折り、近くの公園の至る所に仮設住宅が建設され、遊び場がなくなり、やがて子供達にストレスが現れ始めた。三月の終わりになって、ようやく関係者の努力で軽い練習ができるようになり全員が集合した。
 「ママ、久しぶりに野球ができた。みんなと野球できることは平和の証明やってんな」と娘が言った。その一言はテストでいい点数をとったことよりも、親としては最高に嬉しい一言だった。疎ましく感じていた人間関係も震災で命や家を奪われたことを考えたらちっぽけなこと。生きている人間がいるから感情があり、喜怒哀楽がある。誰しも予想しなかった大地震で、自然の脅威をいやと言うほど知らされた私達に、平凡だけど普通の暮らしが出来る幸せに感謝することを教えてくれた。
 平成七年度、少年野球は運動会の行事で幕を閉じる。秋晴れの下、屈託のない子供達の元気な笑顔こそがKOBEの復興の源になると信じている。


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