茶碗は割れた

          北川 京子 五十五歳 無職  神戸市中央区

 あの日の出来事は一生忘れることはできません。神戸にきて四十年近く、いろいろな経験を重ねてきたけれど、もしこの地震がなかったら、避けられたかもしれないと思うことがあります。
 その朝、私はいつもの通り深い眠りに落ち込んでいました。ドーンという音と共に大きな縦揺れが来ました。それに大きな横揺れが続きました。その時、娘は起きており、数秒後、
 「お母さん地震や、早う起きて」と、金切り声を上げました。私は初めて目覚めました。まだ夢の中の出来事のようでした。玄関の入り口近くで寝ていたので、すぐ家を出ることを考えました。でもやはり、まず着るものや、仏壇の所から、懐中電灯を取り出そうと思いました。しかし、布団の上には本棚をはじめ、家具の上から落ちた物が散乱していました。起き上がったとたん、枕元に、ミシンが落ちてきました。木造の長屋が、悪魔の揺りかごのようでした。
 四つんばいになって、危険な奥に進んでいるとき、奥で寝ていた主人が、ジャンパーを身につけ、私を乗り越えて、玄関のドアを蹴破り一人で外に飛び出して行きました。たとえ私たちが家屋の下敷きになっていても、きっと主人は遠くから、にやりと眺めているに違いないと思いました。
 私はやっと仏壇まで這って行き、懐中電灯を取り出し、台所のガスを止めました。台所はすでに、物が山積みになっていました。次に明かりを照らしながら、猫の名を呼び、辺りを探しました。
 娘は両手を頭に乗せ、布団の上で、身体を丸くして、うずくまっています。私は大声を張り上げて、娘にすぐ外に出るように怒鳴りました。ちょうど、トイレを照らしたとき、猫のミーがうずくまっているのが見えました。名前を呼んだら、やっと、「ぎゃお」と変な声を出しました。その時娘がやっと起き上がり、猫を抱いて私に渡してくれました。急いで、オーバーを着、猫を懐に入れました。娘はラジカセを引きずり出していました。
 二人が玄関に急いだとき、もう二階が落ちそうでした。主人が出たとき、反動で「バターン」と大きな音がしたのですが、戸が内に食い込んで開かなくなっていました。娘と私が、
 「誰か開けて! 戸が開かないんです」と、叫ぶと、隣のご主人が引っ張ってくれました。
 しかし、せまい路地には隣の店の物が全部落ちて壊れて、道を塞いでいました。滑りそうになりながら、必死で道路にたどりついたとき、私は左足を少し痛めていました。
 余震がずっと続いているなか、一人また一人と、住宅の人が外に出てきました。二階の人がタンスの下敷きになって、なかなか出られなかったと話しています。外は真っ暗闇です。娘がラジカセにスイッチを入れると、人々が寄ってきました。
 不安な朝を迎えました。家には帰れないので、トイレはガレージでしました。懐のミーはずっと震えています。大勢の人が、国体道路を行き交うのが見えてきました。隣のマンションの貯水タンクが破裂しました。そのはずみで、瓦礫があたりに散乱しました。どこも真っ暗、早く夜が明けてほしいと思いました。
 そのうち、どこかが火事だという声が聞こえてきました。近所の青年に、
 「人が埋まっていて助けにいくので、電灯を貸して」と、言われました。
 「市場がすごいことになっている」と、帰ってきた人が話しています。
 家が壊れ行き場が無くなった人でしょう、道を通る人、幾人もが、
 「貸家はないか? 家空いてないか」と、たずねていました。やがて、次第に東の空が明るくなってきました。
 周囲の景観が、一瞬にして変わっているのに私たちは驚きました。
 私たちは頑丈そうなマンションのガレージに、一時、避難しました。余震のあいまに毛布などを持ち出して、待機する用意をしました。

 それからでした。以前からおかしかった主人の様子が、次第にひどくなっていったのです。震災直後から、毎夜、女性から電話がかかるようになりました。
 そして二月初めに、主人は家を出ていきました。けれども、毎日のようにやってきては、物を持ち出していきました。私達の仲も壊れかけていた茶碗のように、真っ二つに割れる日が近づいてきていました。
 忘れもしない地下鉄サリン事件の三月二十日、離婚届を役所に出しました。
 それから一カ月後、かねて疑いを持っていたので、役所に行って住民票を閲覧しました。
 それはかつて、乳癌の疑いと診断され、手術を言い渡されたときと同じ程のショックでした。
 今度の妻の欄に、日頃何食わぬ顔をして付き合っていた近所の女性の名前が記せられていました。
 もし震災が起こらなかったら、おかしい主人と老いを迎えて、人生を閉じたかもしれません。


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