罹災証明

          枇榔 妙子 三十五歳 主婦  芦屋市翠ケ丘町

 私の住む市営住宅は、芦屋市の東の端の阪急の線路沿い、丘の急な斜面を階段状に造成した土地に、基礎の違う西棟と東棟を繋げて建てられていました。住所も同じ、汚水路もポンプ室も、管理費も管理人も同じで、震災前までは同じ一つの建物だと思っておりました。その東棟がこの震災で南に傾き使用不可能となり、上下水路はズタズタになり、西棟も十日余り、水の流せない(トイレも行けない。手も洗えない)状態になりました。

 さて震災後一カ月が過ぎ、生活が少し落ち着いてくると、住宅への不安が湧いてきます。東棟はなぜ傾いたのか。地盤は大丈夫か。築年数が古く(昭和四十一年)非常時の逃げ道が玄関しかない。東棟取り壊し時の汚水路は? ライフラインは? 内部修理は誰がするの? 東棟敷地にある西棟住民の倉庫は? 等々。

 しかし市の住宅課からは何の応答もありません。一部の人が個人的に聞いても投げやりな対応しか得られませんでした。又、罹災証明についても、二月二十七日に「全壊」であった評価が二十八日には「半壊」や「未定」に変わり、三月八日の義援金受取指定日の三日前に、住民には何の説明もないまま、「一部損壊」になりました。消防局と福祉・住宅課の役人三者が協議して評価決定したということを、義捐金を受取りに行って初めて知らされました。「一部損壊」には義捐金は出ません。

 同じような損壊程度で「半壊」との評価のところもあります。入居者を無視した対応に憤り、声を掛け合って私達西棟二十五軒が集まり、暫定的な自治会を作ることにしました。個々に問い合わせても担当の方も対応しきれないであろうと、私が代表になり、皆の意見をとりまとめることになりました。震災前までは顔も知らなかった隣人と、住み始めて十年が過ぎた今、色々と話し、初めて人となりを知りました。この住宅には集会室もないので、狭い軒下に傘をもって集まることもありました。

 罹災証明の再調査依頼に行ったのは、三月十四日でした。門前払いされ、西棟入居者の不満が高まり、三月十七日に市の生活文化課へ要望書を提出しました。三月十九日には住民独自でボランティアの建築士に建物評価を依頼し、そのアドバイスをもとに三月三十一日再調査を依頼しましたが、やはり、受け付けてもらえませんでした。

 四月一日に市が住宅の屋内の損壊について調査に来ましたが、水漏れや壊れている窓ガラスの修理など、急務についても、いつになるか分からないとの事でした。再建問題で悩む高級マンションや、家族を亡くされたり、ケガをされたり、大変な問題を抱えている人々が大勢いる中、住む場所のある私達の悩みなどは些細な事でしょうが、住み暮らしている者にとっては初めて経験する困難であり、不安なのです。

 ようやく、四月十九日付で(私の手元に届いたのは五月九日)市長名で要望書に対する回答を頂き、住宅の安全性に問題がないこと、内部の補修をして下さること、倉庫の確保、現在の仮配管の上下水についても工事をすることを明記して頂き、罹災証明の件で、住民への説明がなかった事も詫びて頂くことができました。

 これからも、学校の施設の問題、二人の子供の教育の問題、心の問題、近隣のマンションや家屋の解体や建設に伴う環境や安全の問題があります。PTAや、自治会や色んな方々と手を取り合い、情報を交換し合い、話し合い、理解を深めて、解決していかなくてはと思います。


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