引っ越し

              佐藤 妙 三十二歳 主婦  大津市

 「地震がもう少し強かったら、落ちていましたよ」
 引っ越し前日、エアコンを取り外しにきた電気店の人が言った。エアコンは高い壁に五つの金具で付けられていたが、隠れていた壁にひび割れができたため、金具の三つがぐらぐらになり、ちょっと摘んだだけで取れそうになっていた。ぞっとした。
 大震災の朝、私は激震地、兵庫県西宮市にいた。周辺の古い家は軒並み全壊、半壊。我が家は賃貸の鉄筋マンション。室内の惨状はともかく、建物に致命的損傷はない。家族に怪我もない。当日は避難所に泊まり、翌日、動き出した電車で大阪の実家へ避難し、水道、ガスが通じた四月に西宮へ帰った。帰るとすぐ、大きな余震が来たときに一歳の子供が下敷きにならないよう、食器棚などの大型家具を一つの部屋に集めた。寝る時は、翌日の服を頭の上に揃え、家中の電源を抜いた。 
 便器や壁や家具のあちこちに、えぐられたような傷が見つかった。
 国道43号線に激増したトラックの排ガスが、ベビーカーの子供の顔を直撃する。夜中もゴーゴーいう音が枕元まで響いてくる。
 撤去中のビルは、巨大なゴミの塊。ここから出るアスベストのせいか、喉がひりひり痛み、しわがれた咳と気味の悪い痰が続いた。
 毎日、聞こえる救急車のサイレン。自宅の撤去に涙を流す人たち。更地の真ん中に添えられた花束。今も五時四十六分を指したままの町の時計。近所の人と会えば地震のことで話し込んでしまう。親戚を亡くしたり、人間関係の変化にノイローゼ気味の人もいる。雨続きに夏の猛暑が来ても、図書館は避難所、公園には仮設住宅。自分よりずっと切迫した境遇にある人を大勢見ても、その人たちの何の力にもなれないという無力感は日毎に大きくなった。
 「地震の時はどんなふうに揺れたの」
 子供を遊ばせていた神社で、中年の男性に話しかけられた。興味津々という顔。
 「百年に一度のもんだもんなあ」
 地震見物に来たその男性は、神社の被害の大きさに満足気だ。去年まではこの神社でのびのびと子供たちが遊んでいた。今は修復工事のトラックが出入りして自由に走り回ることもできなくなったのに。私は男性をにらみつけると、家に帰った。こんな小さなことが神経に触るほどに、いらだっていた。夫にもちょっとしたことで、つんけんとあたってしまう。なぜ、それを抑えられないのか、自分でも落ち込んだ。
 「一年でいいから、空気のいいところへ引っ越ししよう」
 七月中旬、夫とささいなことで大喧嘩をしたあと、とっさに出た言葉は、自分自身、意外だった。田舎で暮らすというは夢はあったが、現実に考えたことはない。もっと被害の大きい人は大勢いる、環境が悪いなどというのはぜいたくなことだ、私はそもそも神経質すぎる、そう自分に言い聞かせていた。引っ越せばお金もかかることだろう。でも、もう耐えられないところまで来ていたのだ。
 神戸っ子の夫は、意外にも賛成した。通勤可能範囲で、もう少しゆっくりした気持ちで家族三人が暮らせる所へ移ろうと言った。私は心が急に明るくなった気がした。
 さっそく不動産業者に物件を探してもらった。紹介された家を一目見ただけで、地震で壊れている様が目に浮かんだ。しかし、七月の終わりには、「ここなら」と思えるどっしりとしたマンションに巡り会えた。引っ越しの挨拶に行くと、みんなよかった、よかったと言う。
 「子供にはそれがいい。私は店をしているから、ここを出たくてもできないからね」
 「二十年後くらいにはよくなってるから、帰っておいでね」
 それまでは気づかなかったが、一様に表情に疲れがにじんでいる。言葉に出さなくても私と同じなのだと、その時初めて知った。
 地震から半年以上たった。余震にも少しは慣れた。町にも活気がよみがえっていた。でも、がんばってもがんばっても取り戻せない大きなものへの失望が被災地の人の心を厚く覆い、疲れさせている。地面は動かないという信頼感や、ずっと変らないなじみの風景を失ってしまった。そして、大事な家族や家や自らの命を失っていたかもしれないという恐怖感。
 八月二十九日、引っ越しした夜、くたくたになりながら、なんて静かなんだろうと思った。田園の中の閑静な住宅街。空気が軽く、息をするのが楽だった。これからは洗濯物に排ガスのすすが黒く積もることもない。
 「引っ越してよかった」と思うたびに必ず、被災地で暮らす人のことを思う。自分だけ脱出したことへの罪悪感のような思い。それは地震で実家に避難したときからずっとわだかまっている。生まれて初めて、他人の不幸を我が事のように思い、連日のように涙を流し、心から人の役に立ちたいと願ったのに、役に立てなかった。
 でも、この震災体験を無駄にしないで今度は自分が役に立てるようになりたい。


[ 目次へ | ホームページへ ]