はじめに

編集総括  小橋 繁好


 一九九五年の世相を表す漢字として、日本漢字能力検定協会は「震」を選んだ。
 戦後五十年目にあたるこの年、いろんなことがあった。一月十七日の阪神大震災の後、宗教団体によるとみられる異常なテロ事件が発生。多くの金融機関が破綻し、教育の場では、いじめ問題が深刻化した。政治は「戦後処理」の総決算をもくろんだが、沖縄では米軍基地反対争が再び燃え上がった。

 阪神大震災から一年。この一年間を「もう」と感じるか、「まだ」と思うか、人それぞれであろう。

 そうした中、阪神大震災の被災地では、「復興」という二文字が氾濫し、周辺からは「頑張れ」という呼びかけが繰り返された。
 しかし、この二つの言葉が適切だとは思えない。「復興」「頑張れ」という、ただそれだけの言葉に、被災者たちは少なからず反感を覚える。寄せられた手記の中にも使われてはいるが、厳しい現実を踏まえての言葉である。
 「避難所」は「待機所」と名前を変えて残り、今なお多くの被災者が厳しい生活を強いられている。一年たった今も、犠牲者は増え続けている。仮設住宅での孤独死は跡を絶たない。行政の統計に表れない死者もいる。体と心の後遺症に悩む人はもっと多い。
 九五年五月に出版した震災体験記第一集『阪神大震災 被災した私たちの記録』(阪神大震災を記録しつづける会編・朝日ソノラマ刊)には、大地震の恐怖と悲しみとともに、助かった命の大切さをかみしめる手記が目立った。
 しかし、「生きる」ことが現実になった今、様々な苦難が被災者の肩に重くのしかかっている。

 壊れた家、生活の糧。持っていき場のない怒りに震えながら、展望のない未来を模索する被災者に、「復興」という言葉は冷たすぎる。

 第一集ではあまり見られなかった、震災の「陰」の部分も、第二集では数多く垣間見られる。家族間のきしみ、そして別れがあり、美談の陰で露呈した人間のあさましさ、醜さも綴られている。
 今回も二百人を超える人が、貴重な手記を寄せてくれた。これほど多くの手記が集まるとは予想しなかった。
 「書こうと思っても、原稿用紙に向かうと書けなかった。当時を思い出し、あまりにもつらくて。しかし、やはり書かなければ」。余白にこんな文章が書き込まれた手記もあった。人に読んでもらうことよりも、自分の思いを記録にとどめたいとの願いがにじみでている。
 一回目の手記がきっかになって、新たなボランティア活動に取り組み始めた人もいる。今でも被災地を尋ね歩き、その時の模様を丹念に記録し続ける人。震災後に公表された資料で、あの日の自分の行動をたどる人。
 新たなネットワークも芽生えている。一人ひとりが、様々な所で活動を始めている。
 記録し続けることの大切さが、改めて理解できた。

 手記を、一九九五年一月十七日午前五時四十六分、「あの日、あの時」から書き始める人が多い。被災者の原点であり、「生きる」出発点だからだ。
 「もう一年」が繰り返され、「まだ十年」になっても、変わらないだろう。

 この体験記第二集は、長く険しい道のりの「一里塚」にすぎない。

1996年1月