二十秒間で得たもの

  アラン・オリボー 五十一歳 語学教師 芦屋市(フランス)


 わたしは寝ていた。突き上げられて目が覚めた。最初は、横揺れではなく強い縦揺れだった。何が起こったのかわからなかった。これは夢の中のできごとか。間違いなく、それは地震だった。しかし、これはいつもと違っていた。いつまでも続いた。強く、狂ったように、揺れに揺れた。そしてあの暴力を振るったのだ。なにか巨大な手が、建物を引き裂いているように思えた。なにか底意地の悪いものが、背後にひそんでいるようだった。
 何も見えないで、あたりのものが壊れてゆく音を聞くことは恐ろしいことだ。まっくらで、足の下のマットレスが動いた。窓やドアのガラスが音をたてて割れ、ほこりが天井から体に降りかかった。部屋の四方の壁が、緩く結ばれた薄い仕切り壁のように、揺れ続けて、いつまでも止まらない。
 わたしは、ベッドの上で座っているしかなかった。多分、何かにつかまっていたのだろう。しかし、覚えていない。天井から降ってくるものから身を守ろうとは思わなかった。逃げようともしなかった。何かするには、からだがまひしてしまっていた。四つん這いになって、わたしが動き出したとき、おそらく揺れは止まっていたのだろう。
 最初にしたことは、眼鏡を捜し、パジャマの上に何か暖かいものを羽織ることだった。わたしのマットレスの足元に水があった。風呂場のバスタブからこぼれたものだった。二メートルも離れており、戸もあるのに。しかし戸は開いていた。
 いつ、どんな風に表のドアをあけたか思い出せない。恐ろしい光景がそこにあった。わたしは、他の人たちと比べると、そんなに悪運だったわけではない。わたしの目に入ったものは、四室でひとつの建物となっているアパートの裏側部分がこわれて、バスタブや便器が転がっているさまだった。建物自体はひどく左に傾き、屋根の一部は、さらにひどくずれていた。わたしは住んでいる二階から傾いた階段を降りていった。
 一団のひとたちが路地に固まっていた。この人たちと親しくしたことは一度もなかったが、まぎれもなくわたしの隣人なのだ。一階の人たち、並びの部屋の人たち、そして向かいの老婦人。ふつう、そんなにお互い同士話ししない。恥ずかしげな微笑、気を使った言葉。こんなときどうしたらいいか、日本案内書には何も書いていない。
 老いた母と娘の老婦人が行方不明だ。呼べど答えなし。ふたりの男性といっしょに全力で戸をこじ開けた。最悪の事態を覚悟していたが、二人は倒れたタンスの下で生きていた。かすり傷を負っただけだった。作業中に部屋の中にいることはとても怖かった。余震が何の前触れもなく来ていたからだ。このとき、夜は明けていた。
 フランス人の友人二家族と小学校の体育館に避難することを決めた。彼らの軽量の住宅は、地震に耐えたのだが、夜、家の中で寝るのが怖いのだ。大きな余震がすぐ来るとの噂が広がっていた。そして実際、小さな余震が続いていた。
 二台の車が小学校に寝具、食料、飲料を運んで来た。体育館の床は冷たかったが無事に場所がもらえた。バスッケットボール・ポストの籠の下だった。夜とともにぞくぞく避難者が増え、三百人になった。布団と布団でびっしり埋まった。電灯がついており、寝られない人もあった。
 最初の問題はトイレの水洗。学校のプールの水を使うことになり、バケツで汲むシステムがすぐできあがった。校長、先生方、父母たち、みんなあえて試練に立ち向かっていた。そしてやさしかった。この場をかりてお礼を言いたい。学校の名は、芦屋市山手小学校。
 フランスも日本もなかった。みんな親しく情報交換した。こどもたちはすぐ友達ができた。そして、震災版「お客さまごっこ」をしていた。小さな女の子がお客の友だちにいう。「よくいらしゃいました。しかしドアに気をつけてね。壊れているから」
 揺れは確かにつらかった。ものを失ったが気にならない。いや、まったく正反対に心が解放され、教えられたことがあった。人たちが違って見え、親しく感じられた。これは、失った身の回りのものより、はるかに大事なこと。他の人たちもそう感じているに違いない。
 わたしたちは生まれ変わったのだ。揺れはたった二十二秒だったが、わたしたちにとって、まだ揺れは続いている。心の中に深く、内面化して。阪神間の人たちは地震から共感を得た。それは、分かち合うという、生きることの意味を見つけたことだ。