関西空港行きジャンボ機で

   アンディー・フィシュトロム 二十九歳 英語教師


 機内に明かりがつき、声が聞こえてきました。「乗客の皆さん、こちらは機長です。お休みのところ申し訳ありませんが、お聞きください。重要なことをお伝えしなければなりません」。普段なら機内放送で起こされると腹の立つところですが、機長からの話となると別です。飛行機に何事か起きたのかとの不安に襲われました。
 その朝、私はニューヨークを出発してデトロイトに赴き、搭乗までしばらく時間をつぶした後、デトロイト発関西空港行きの飛行機に乗り込みました。すでに離陸して七時間が過ぎており、ほとんどの乗客は寝ていました。
 「皆さん、起こして申しわけありませんが、たった今、地上の管制官からの連絡を受けました。関西地方に大規模な地震が発生したとのことです。現在のところ、その規模やその他について詳しい事は分かりませんが、少なくとも現実的な被害が発生しており、死傷者もでているようです」
 乗客たちは眠い目をこすりながら、このニュースに耳を澄ませました。
 死傷者だって? 機長の話は続きました。
 「本機は現在アラスカ湾の上空を飛んでおりますが、管制官の指示により、出発地のデトロイトに戻ることになりました」。乗客の間から大きな不満の声があがりました。「しかしながら、デトロイトまでの燃料が十分ではありませんので、給油を受けるためにミネアポリスに着陸いたします。新しい情報が入り次第、皆さんにお伝えいたします」。飛行機が高度を下げて左に旋回を開始したことで、機長が飛行コースを変更したことが分かりました。
 六時間後、私たちはミネアポリスに着陸しました。乗客は飛行機から降りることが許可されず、ただ、大きなトラックがやってきて燃料を補給するのを見ているだけでした。飛行機の乗務員たちには関西空港の様子についての情報を尋ねる乗客の要求が殺到し、そのためチーフパーサーが管制塔に情報を問い合わせる電話をかけることになりました。
 「まだ詳しいことは誰も知らないそうです」彼女は一呼吸を継ぎました。
 「ただ死亡者のいることは確かだそうです」
 「それはもう聞いたわ!」と老婦人の一人が言いました。私たちは再び、押し黙って待つだけの状態に引き戻されました。
 飛行機がデトロイトに着陸した時、私たちは眠く、そして不満だらけでした。デトロイトは早朝でしたが、航空会社の社員が大勢やって来て、私たち一人一人に対して目的地に行くための手配をしてくれました。ボーイング747には二百五十人以上の乗客が乗っており、それに最終目的地がマニラでしたから、故郷に戻る人たちの国籍は様々でした。
 日本で起きていることについての情報を伝えてくれる者はまだ誰もいませんでしたが、そのうちに地震の中心は神戸付近だという話が聞こえてきました。瓦礫の中に閉じ込められた人々の救助活動が開始されたとのことでした。また火事も発生しているとのことでした。
 ようやく見つけた旅行代理店の社員は私に、航空券を手配することはできるけれども、到着後の地上交通の状況については全く予想がつかないと言いました。しかし二十四時間以内に関西空港が再開するかもしれないので、一晩ホテルに宿泊して明日まで待ってみたらどうかと勧められ、私はそうすることにしました。
 航空会社の用意したホテルの部屋に荷物と共に無事到着した私は、直ぐに、京都にいるガールフレンドに連絡を取ろうと電話をかけました。しかし何度電話をしても受話器から聞こえてくるのは、「ただ今回線が非常に込み合っています。しばらくしてから、おかけ直しください」という録音テープの声ばかりでした。
 その間、デトロイトの朝のニュースに、荒廃した街の様子の第一報が映しだされました。家の中から表に逃げ出して震えている人々の姿です。ニュースキャスターたちは皆一様に、悪いニュースを報道する時に見せる沈痛な表情をしていました。しかし次の、クライスラーの経常利益が増加したとのニュースでは、彼らの表情は一変していました。
 何度ダイヤルを回したことでしょう。十五回、いや二十回。どうしても連絡を取ることのできない私は、京都が無事であることをただ祈るばかりでした。テレビでは京都について何も言っていませんでしたので、たぶん大丈夫だと思って少し安心しました。翌朝になって電話がつながり、彼女も京都も無事であることを知りました。
 結局、二日待ってようやく大阪に到着し、アパートに戻ることができました。翌日出社のために阪急電車に乗車すると、周りの乗客は皆食料品や水を携えていました。その時私は、いかに多くの人々がこの地震で被災し、またこの地震がいかに激しいものであったかを実感したのでした。