故国の息子

   史 楽平 三十七歳 留学生 神戸市東灘区(中 国)


 十九年前、私は中国で唐山大地震を経験した。そして十九年後に、神戸で大地震に遭おうとは思ってもいなかった。
 早朝、私はさくら銀行神戸社員寮で静かな眠りについていた。すると、突然大きな力で床に放り出されてしまった。私はとっさにもがいて起き上がろうとしたが、この強大な力に対抗できるわけがなかった。地震だ。今日が私の命日になるかもしれない、と思った。
 厚い羽毛布団をかぶって部屋を出、真っ暗闇の中、階段を下りていった。五階、四階、三階……。ついに一階の廊下にたどり着いたが、倒れた自動販売機がまるで鉄の棺桶のように横たわり、私の逃げ路を塞いでいた。それを越えて、やっと寮を飛び出した。
 電話ボックスの前には、それぞれ十数人の長い列ができている。私は一番短い国際電話の列に並んだ。やっと私の番になった。テレホンカードを差し込もうとしても、どうしても差し込めない。後ろにいた日本人が、停電しているからコインしか使えないのだと教えてくれた。しかし、私はコインを持っていなかった。親切な人が、役に立たなくなったテレホンカードをコインと交換してくれた。また並び直し、やっと私の番になったとき、電話機はコインでいっぱいの状態で、これ以上一枚のコインも入らなくなっていた。
 余震の合間を縫って、私は寮に帰った。室内は見る影もなく変わり果て、誰かがすべての配置を変えたかのようだった。
 壁にくっついていた机は部屋の真ん中に移動し、テレビは部屋の南西の角から東北の角に転がっており、書籍は山になり、二組の義歯を捜すのに数十分かかった。紙くずの中から電話機を引っ張り出した。幸いなことに電話機は壊れておらず、しかも通じた。このときの驚きと喜び。私は落ち着いた口調で北京の父に神戸大地震のニュースを簡単に伝え、また市内の中央区、西区と大阪に住む四人の恩師に電話をした。幸い四人とも被害はなかった。
 私が住んでいる神戸市東灘区は全市で最も多くの死傷者を出したと言われている。寮の北側の平屋と二階建ての家は、どちらも廃墟と化してしまった。日本人の中には、会社は家同様に大切、と考える人が多く、大勢の人が会社の様子を知ろうと歩いて向かった。その他の人は被災した場所に戻り、人を捜したり、救出したりしている。
 家族を救出した被災者たちが、比較的正確で適切な情報を教えてくれるので、救出が順調に行われている。家全体が倒壊している場合は、深く閉じ込められているので、一人を救出するのにも非常に時間がかかる。
 皆で窓枠を切ったり、ドアを破ったり、家具を取り除いて中に進んでいき、とうとう一人の男の子を引っ張り出した。その子の両足は紫色に腫れ上がっていた。続いて、その子の母親を瓦礫の中から助け出した。救出作業中、この人は口をきくことができず、両手をこわばらせ胸の上で組んだままだった。私たちは布団を出してきて親子をくるんだ。車が来たが、一人しか乗せられない。私たちは子供を車に押し込み、母親の方はテーブルの上に載せて、担いで病院へ向かった。その途中でも、多くの家屋が倒壊して道を塞いでおり、私たちは回り道をせざるを得なかった。
 この母親を担いでやっとのことで病院に着くと、畳の上に横たわったけが人の列が外の路上まで続いていた。医師は親子を診察して、軽傷だと判断し、夜になってから治療する、ということで当座の薬を与えた。私たちは仕方なく、この親子を担いで寮に戻り世話をすることにした。
 私がことのほか思い出すのは、北京にいる息子のことだった。彼が生まれてからの十年間、前半の五年間は私の仕事が忙しく、あまりかまってやれず、後半の五年間は日本に留学して、一度も彼に会いに帰っていない。私はいつも心の中ですまなく思っているが、今は彼に言い訳をしようとは思わない。私は彼に短い手紙を書いた。
 「天ちゃん、神戸で大地震が発生した。お父さんはおまえのことを思っている。お父さんはおまえを愛している。おまえの健康を祈っている。ねばり強く、志を持った人であれ。 大地震の日本で  父より」
 現在、一切がマヒ状態で、郵便も届かないことは分かっている。しかし、私はこの手紙を投函した。私は必ず死ぬとは考えていない。しかし、いつか死ぬという思いは排除できない。それで、この手紙を書いたのだが、この手紙が遺書にならないことを願っている。
 避難所のホールの中は非常ににぎやかだ。一般的に日本人の性格は内向的でおとなしいと言われていて、たとえ人が集まっても中国人のように騒がしくはならないと言われている。しかし、この非常時においては人々にも変化が見られ、見知らぬ人と声をかけ合い、食べ物を分け合い、普段よりもむしろ楽観的で明るくさえあった。
 地震は私の博士論文の執筆計画に影響する。だが、この特大の地震を体験し、非常時の日本社会を見たことは、私にとって一つの経験になった。
 私は、この大地震で亡くなった中国人留学生のことを忘れることができない。その中の一人、衛紅さんという女性は、天皇ご夫妻の訪中時に通訳を務めた人で、昨年十月に大阪大学の大学院に進学し、経済学を専攻していた。彼女は大阪日中友好協会の招きで来日し、協会の中の宿舎に住んでいた。しかし、今回の地震でこの宿舎は完全に倒壊し、彼女は瓦礫の山の中から発見された。来日直前に結婚した夫が一月十九日に訪ねてくる予定だったが、十七日未明に地震が起きたのだった。