カメラ

     田中 末吉 五十九歳 自営業 神戸市北区


 地震の朝も、いつもどおり五時二十分に家内と車で自宅を出ました。有馬街道を通り、六甲トンネルを抜け灘区へ入りました。六時前に、阪神岩屋駅前の喫茶店「ロンドン」に寄るのが日課です。時速五十キロくらいで国道2号線の手前まで来たところで、西の空が光ると同時に車が二度飛び上がりました。
「地震や」
 と大声を上げ、横を見ると運転している妻がハンドルを持っていなかったので、とっさにサイドブレーキを引きました。車は合計三度浮き上り、大きな横ゆれが六回ほど襲いました。
 道路沿いの家が歩道を越えて車道まで倒れてきました。車が止まった横にたまたま大きな木があり、家は車をよけて倒れ命拾いをしました。ほこりで一メートル先も見えません。しばらくして、車のライトの光の中に倒れた家の人が現れたので、安堵しました。
 すぐ近くに、仕事先の島文ビルや神鋼興産ビルがあり、どうなっているか心配なのですが、電柱が倒れ車は進めません。後でお客さんに写真を差し上げようと思い、いつも車に積んであるカメラを持って、徒歩で建物に近づき写真を撮り続けました。私の愛機は、キャノンのEOS1で望遠レンズは28〜500mmです。建物は想像以上に大破していました。
 次に事務所のある貿易センタービルへ急ぎました。私は昭和四十四年から、貿易センタービ ルで仕事をしています。四十五年に、当時の原口忠次郎社長が、二十六階の展望台で来客に、このビルは関東大震災級の地震が来ても大丈夫と説明しておられたのを記憶しております。
 事務所のある地下二階へは天井から水が滝のように落ちており入れません。水道配管が破裂していたようです。そこで事務所へ入るのはあきらめ、非常階段を二十六階まで上がり、屋上に出て窓拭き用の鉄塔とゴンドラの点検をしました。百十メートルの建物の階段を一気にのぼったわけです。幸い、設備は無事で安心しました。
 ポートアイランドにカメラを向け、得意先のビルの確認もしました。しかし、貿易センタービルの東西方向には、すでに火事が発生していました。時刻は七時二十分で、余震が来ないよう祈りながら階段を下りました。
 私は父の影響を受けて、写真が趣味です。私が十三歳の時、滋賀県北部の西浅井で三千七百六十九人がなくなった福井大地震に遭いました。福井とは山ひとつ隔てた場所ですがひどい揺れで、あの恐怖は今でも鮮明に残っています。父はすぐに福井市内に入って写真を撮り、今でも家にはその記録が残っています。
 私は二八歳(昭和三十九年)で、新潟大地震にも遭いました。日本通運に勤務していたのですが、津波で信濃川河口の埋立地の家屋が倒壊したのを、夢中で写真に記録しました。福井の地震でも、津波の被害が大きかったようです。
 二度も地震の経験があるので、昭和四十五年に神戸市内に引っ越しする際、アルバイトの神戸大学の学生が、「神戸市街には活断層がある」と忠告してくれたのを素直に聞いて六甲山の裏手の北区にしました。その学生も北区に下宿していました。彼の父親は鉱山のボーリング技師でしたが、神戸の市街地は危ないと言うのです。家内は「山を見、街を見、海を見て暮らすのが理想」と大反対し、一時は離婚話まで出ましたが、あれから二十五年、今度の地震で家具は全部倒れましたが、建物は無事でした。
 地震の結果、神戸市内に三十軒あった取引先のビルのうち十八軒が取り壊しとなりました。八月までにその中の三軒が復旧するそうですが、大打撃です。当面はぼちぼちお客さんの復興を待たねば仕方ないでしょう。
 貿易センタービルでは、社員さんやたくさんの方々がビルに泊まり込み、設備の復旧に頑張って取り組んでおられます。若い人たちには良い経験と勉強の機会だと思います。
 職業柄、「どんなビルが大丈夫だったか」とよく聞かれます。二十年以上前に建ったビルはほとんどやられましたが、十年前にできたものでも倒壊しています。どのビルが安全とは一言ではいえません。三十年間、死と隣り合わせの仕事をしていますが、あの地震が日中、仕事中に来たらと思うとぞっとします。
 これからも、神戸の移り変わりを撮り続けます。