目に見えない世界

      今野 志保 十九歳 短大生 神戸市灘区


 生命。目に見えないものの尊さをこんなにも実感したのは初めてだ。私の家は、神戸市灘区のJR六甲道駅と阪神新在家駅の間に位置する。
 あの恐ろしい数十秒の揺れの後、とにかく家の外へと、近所の人々はパジャマ姿で出てきたのだ。私も含め、何が起こったのかよく分かっていない。まだ暗くて足元の状態さえおぼつかない。それでも身の危険は察知している。電信柱がのきなみ倒れて、電線が垂れ下がっているのが、うっすら分かった。道路に茫然と立ちつくす人々。助けを求める声。そして少し明るくなってきた頃には、あちらこちらで爆発音と共に火の手が上がる。寒いけれども建物に近づけない。
 それから二時間程経った頃だろうか。私は、周りの光景に目を疑った。見えないはずの建物が見え、近くのボウリング場は大きく傾いている。そのころから人々の流れは激しくなる。火の手から人を守り、生き埋めになった人々を助けるためだ。だが、無残にもそれと同時に悲報が続く。
 いつも調味料を買いに行く、裏の酒屋の息子さんが亡くなった。まだ若い。遺体を前に、母親は半狂乱だ。近所でよく顔を見る、小学校六年生の女の子も亡くなった。
 その頃、私の友は、靴を取り出せないため、借りに来た。裸足では寒いし、危ない。その上、近所で人を助けるために必要だった。
 父が「気い付けや」と靴を手渡すと、「ありがとう。おっちゃんらもな」と、言って足早に去っていった。
 それから間もなく、彼女の家にも火は移り全焼した。そして、すぐ隣のガソリンスタンドの前でようやく火はおさまった。
 もう昼も過ぎていた。余震が続く恐怖に脅えながら、二百メートル程先の烏帽子中学校へと急ぐ。何とか門を開いて広場を確保した。少しだが皆に落ちつきが戻った矢先、中学校の理科室付近から火の手が上がる。たちまちに火は体育館にも広がった。避難してきた人々は、火の恐怖に、またばらばらになった。私と母は、近所の人と鎮火するのを待った。
 一方、父は長男と次男を連れて、祖父母の家へと向かった。2号線に沿って、五分程歩いたが、手前に来るといつも見える二階の屋根が見えなかった。その時、「あかん」と思ったらしい。だが、隣の若い夫婦が引きずり出してくれ無事だった。無事を確認して、父は仲人夫婦の家に急いだ。子供のいない老夫婦だけに心配していた。家は傾いていたが、これというけがもなく、じっとしていた。今は家にいるという彼らをどうすることもできず、父は自動車を持ってきたら呼びに来るからと言って、彼らの家をあとにした。
 夕方になる頃やっと、いつでも逃げられるようにと、43号線の手前に車を置いた。布団を持って車に行く途中、阪神電車の高架は落ち、高架下の店舗から出火していた。はんてんを着たおばさんが、「この中にまだ人いるねん。助けて」と、声をかけるが、プロパンが爆発し、助けようがない。
 私もまたその場を横目に去る一人だった。熱いものがこみ上げるのが、自分でもわかった。
 車を中学校に移動させ、夜もふけた頃、吹田から母方の叔母夫婦が食料を持って来てくれた。一緒に発ちたかったが、ガソリンも底をついた状態で動けず、祖父母だけ連れて行ってもらった。いつもなら大阪まで走れるガソリンの量でも、こう渋滞していては無理だった。食料も売っていないが、ガソリンも同じ事だ。
 夜が明け、通れる道をくねくね走った結果、十四リットルだけ入れてもらえることになった。何とか燃料不足をしのぎ、夜になるのを待って、神戸を脱出した。やっとの思いで吹田の家に着いたのは、十九日早朝だった。腰の痛みと震災前からの風邪で、体力は限界にきていた。
 約一カ月、寝たり起きたりの状態は続いた。今も治療中だ。しかし、腰と目には後遺症が残るらしい。ただ、見た目には何ともないことを、喜ぶべきであろうか。あの日から何日たっただろう。
 家の周りでは解体が少しずつ進んでいる。私の周囲もかわった。祖父母は見通しが立たず、田舎の和歌山で余生をすごすことになるだろう。両親の仲人
 夫婦もまた、近所で家を見付けられずに、須磨にある老人ホームへと旅立った。
 私は家が残ったので家族五人で新たな生活を送る。そして、十年、二十年後、街並みも変わり、何事もなかったように人々は、せわしなく日々を過ごすことだろう。
 だが、忘れないでほしい。少ししかない水を分けあって飲んだことを、日本中の、世界中の人々が助けてくれたことを。生命が、人と人との心の世界をつないでいるんだから…。