老犬と共に生きる

      竹中 勇治 八十歳 神戸市東灘区


 地震の朝五時三十分すぎ、犬の散歩のために家を出る。
 寒いので目出し帽にかえ、一枚重ね着をした。犬は散歩の催促をして早くから鳴くので近所迷惑になると思い、連れて出るのが習慣となってしまった。毎朝通るコース。市バス通りへ出て灘校のグラウンドの道を西に折れて住吉川に出る。
 灘校のグラウンドの角を曲がろうとした時、犬が突然座り込んで動こうとしない。そして何とも言えない異様な吠え声をした。
 どうしたのかと思っていると、私の体が突然左右に激しく揺れた。とっさに道に伏せると同時に下から突き上げられ地面にたたきつけられ、二度三度と突き上げられ、又たたきつけられ又ゆすられる。
 大地がゆれている。頭や背中に硬い物がバラバラ落ちてきた。地震だと思い起き上がって走ろうとしたが地面がゆれて、体はふらふらである。目の前が真暗になり土煙をあげて家が倒れてきた。
 余震のため足は宙にういたようだ。途中の家は倒れかかり、倒れてしまった家もある。あたりは土煙でもうもうとしてこの世の終わりかと思うほどであった。
 無我夢中で家へ引き返す。
 「助けて」
 「助けて」
 「お母さん」
 という叫びを耳にしたが私は走った。前の家が倒れその太い柱の上を夢中で越える。
 なぜか犬の紐を固く握っていて犬がついて来ていた。家の屋根が見え、外から
 「早く外に出よ」
 と怒鳴っていた。隣の娘の家族も皆無事であるのを見てその場に座りこんでしまった。
 その日、近くの甲南本通り商店街から出火して、黒煙と火柱が東風にあおられ近くまで迫って来たので生きた心地がしなかった。夜になってもおさまらず火事と余震で皆一睡もしていない。広い道路は救急車、消防車のサイレンで夜も昼もなくけたたましい音である。
 翌十八日、御影浜のLPGタンク基地のガス漏れで半径二キロ以内の住民に避難勧告が出て、山の方に逃げる。
 ドッグフードを袋に詰めて、犬も連れていく。途中くすぶり続ける焼跡を横目に歩く。大勢の人が避難している。毛布をかぶった人。放心した顔をした老人。まるで戦時中のようだ。
 国道二号線の北の公園で休んでいたが、寒くて人も犬も震えた。親類の娘がおむすびをたくさん持って来てくれたが、一団体だったので一個だけを口にした。地震から初めての食物である。
 三日目に地震にあった現場へ回り道をしてみた。南のグラウンドの塀が全部道に落ち、その上に向い側の家の二階がとんで来ており電柱も横倒しになって道をふさいでいる。
 あまりのひどさに私は足がすくんだ。
 あの時犬が座り込まず角を曲って歩いていたら、犬と共に瓦礫の下に埋まっていただろう。家族は私が帰らないのでいつものコースを探すだろうが、下敷きになってしまった者はすぐに判らない。思えば思うほど恐ろしくなった。犬は私を助けてくれた。
私はこれで三回、命拾いしたと思う。
 阪神大水害の山津浪で濁流が一気に押しよせ、住吉川が氾濫した時、松の木にしがみついて助かった。
 二度目は戦時中、明石の川崎航空機に徴用でいっていた時、B29の編隊爆撃でまわりの人が大勢亡くなったが、私は幸いに助かった。焼夷弾爆撃で妻とにげまどったが、一晩中、明石川の川岸にへばりついて、雨のように降る弾も受けずにすみ、大火の中、九死に一生を得た。
 三度目の今回、地震は突然である。こんな恐ろしい目はあった者しか分からない。
 私が八十歳を過ぎても元気でいられるのは、若い時から山登りが好きだからだ。六甲山は我が庭である。そして、テニスの楽しみ。また、家にいる時は一日中、外で庭の手入れをしている。
 今回の地震で老人の多くが亡くなられた。私は亡くなられた人の冥福を祈り、一年でも長く生きたいと思っている。
 犬が早く死ぬか私か。この頃、犬も早くから鳴かなくなり、散歩も六時半頃に出るようになった。門のそばにある梅の紅枝垂は地震にかかわりなく、今年は花付きよく満開である。今朝はゆっくりと眺めた。少しずつ心のゆとりを持つようになったのだろう。
 私の生まれ育った大好きな町魚崎北町は、この地震で街並が一変してしまった。道路の瓦礫は撤去されたが、壊れた家はまだ手付かずが多い。
 今朝も私は六甲の山なみを見ながら、いつものコースを犬と共に歩く。もう四度目の恐ろしい事が起こらないように神に祈っている。