災害は街を人を心を変える

     三辺光夫 六十三歳 大学教授 神戸市東灘区


 〈ドキュメント・午前五時四十六分〉
 一九九五(平成七)年一月十七日(火曜日)。振替休日の翌朝で午前五時前に目が覚めた。ニュースを聞いて、風呂に湯をはり、書斎コーナーの灯りをつけ、コーヒーを入れようとリビングの暖房スイッチに近づいたとき、ドーンと足下から突き上げられる衝撃。倒れかかる本棚に手をかけた瞬間、足払いをかけられて投げ飛ばされたようにフロアに叩き付けられた。一瞬視界がなくなり、立ち上がろうとしたら頭や背中からバラバラとガラスや家具の破片が足下に落ちてきた。何が起こったかと思いきや、まだグラグラと揺れているので相当大きな地震であることに気づいた。
 大声で家族の安否を確認し、手さぐりで懐中電灯を捜しあて、携帯ラジオを探した。
 半年前、大阪からここ六甲アイランド(東灘区向洋町)に居を移し、半世紀ぶりの神戸生活が始まったばかりだった。六甲山系と海、そして阪神ベイラインの街まちを一望できる高層マンションの三十三階を選んだのも故あってのことだった。
 その六甲山麓に連なる神戸の街を見ようとしたが、灯りひとつなく、私の目から街は消え失せていた。間もなく、野火のように点々と火がつき、やがて燎原の火の如く燃え広がっていった。
 〈三たび神戸での被災体験〉
 「阪神大水害」・一九三八(昭和一三)年七月五日。
 連日の豪雨で六甲山系のあちこちに山崩れが発生し、たちまち鉄砲水が神戸の街を襲った。当時小学二年生だった私は、登校後間もなく急いで帰宅するように言われ、上級生に手をひかれて校門を出た。数百メートルの自宅までの間に、みるみる濁流は膝小僧までやってきた。途中から近所のオジサンに助けられ、やっと床下浸水の家に辿り着いた。
 「子供が水にさらわれた」
 「家が流されている」
 「市電がドロに埋まっている」
 などオトナの話しを聞いていた。
 このときの被害は、死者・行方不明者五百十三人、家屋の流出・埋没・全半壊一万二千戸で神戸の六〇%が水につかり、全人口・全家屋の七〇%が何らかの被害を受けた。
 「神戸大空襲」・一九四五(昭和二〇)年二月〜六月
 この年に入ると日増しに空襲が激しくなり、初めは造船所や軍需工場がねらわれていたが、やがて市内全域に拡がってきた。二月四日の夜半すぎB29爆撃機の編隊が次々とやって来て、照明弾が投下され、つづいて、あのザーという音と一緒に無数の焼夷弾を投下した。各所で火の手があがり、人々は唯逃げまどうばかりだった。
 そのころ私の家族は、兄は軍隊、母と妹は郷里の但馬に疎開、神戸には父と私だけが残っていた。前年の秋、中学二年の私は陸軍飛行学校(少年航空兵)の最年少試験に合格し待機中だった。敗色いろ濃き戦局を知るよしもない私は、死んではいけないと思い町防衛部長の父を手伝い隣保の避難誘導に走っていた。幸いその日は家の焼失は免れたが、このとき父は工場も焼け、私を母のいる但馬に帰らせ自分もあとから帰る決心をした。
 三月十七日、五月十一日、六月五日と相次ぐ大空襲で神戸は全く焼土と化した。旧市内だけで死者八千人以上、負傷者一万五千人以上、罹災者五十万人にのぼった。
 そして、こんどの「阪神大震災」である。
 〈情報と行動現象のさま変わり〉
 大水害のときは、くちコミと号外で被害状況を知り、自分の目で確かめていた。このときの印象として陸軍工兵隊と消防団のハッピ姿が忘れられない。そして川が埋められ道路が舗装されたり、自然が失われ町は変わっていった。
 大空襲では、ラジオからの軍管区発表の情報しかなく、間もなく迎えた八月の敗戦後は進駐軍のアメリカ兵と日本の復員軍人の姿が目立った。そしてデモクラシーと反戦・平和の意識改革で人が変わっていった。
 今度の大震災では、情報の主流はテレビとなり、自衛隊とボランティアの姿が印象に強かった。
 豊かなモノの時代、そして発達したメディアの時代にあっては、いちはやい救援とすばやいビジュアルな情報は、さきの湾岸戦争のときの海に流出した原油にまみれた鳥のように、被災地の情景が度々放映され多くの救援物資と義援金が寄せられた。
 局地戦争のない日本では、国内の局地災害にも同じ気持ちでうけとめられる側面があるのではないだろうか。それは一カ月後の東京や北陸で感じた多くの人達の言動からである。
 被災地では、市民の権利が尊重される一方で利権のうごめく気配がしてならない。どうやらこんどは人の心が変わってきたのだろうか。自由はありがたい、でも権利と義務をともなう真の民主化の成果とそのさま変わりを、もう少し生きて確かめたいものである。