「我が助けは何処より来るか」

     滝浦 喜代香 六十六歳 主婦 神戸市東灘区


 あと一週間で、主人の一周忌を迎えようという朝まだき、激震で揺り起こされた。
 横に滑ったベッドは、低い整理タンスにぶつかってストップしたらしかった。だがもう片側は倒れかかったタンスをたった一枚の襖が受けとめ、奇跡的に私の生命を救った。
 そして隣室。教師だった主人の書斎は、ひっくり返った書棚や所狭しと投げ出された本の群れが天井まで山となっていた。机も椅子もアッパーカットをくらいペンや鉛筆は無惨にばらまかれ、ライトは折れてその先端が天井につき刺さって深い傷を作っていた。
 まるで怒った怪獣が欲求不満をぶちまけたようなその日の我が家だった。
 窓から見渡す東灘は数カ所から火の手があがり、壊れたテレビを見なくても、震災のすさまじさには身がすくんだ。
 電気は、第一日目の夜からついて助かったが、水汲みは大変だった。三階まで老人が水を運ぶことは容易な業ではなく、見かねた隣人に何度ご厄介になったか、言い尽くせない感謝である。
 夕食もしばしばご馳走になった。余震の恐怖の夜も、一人暮らしを気遣って、必ず声をかけていただいた。
 しかし、被災三週間たっても、我が家は足の踏み場もなく、割れた食器類をごみ捨て場へ何回か運んだだけで、私の体力は限界にきた。
 家が建っているから、避難所へは行かないが、一人暮らしの年寄で、水汲み・食事・片付けに思い煩っている同じような人は神戸に必ずいたと思う。
 震災の夜より、片付ける能力のない私は、やおら居間のこたつの狭い空間だけを確保して、着のみ着のままの生活を続けた。
 三週間を経過してもどの部屋も一月十七日の地震の状態で家具はごちゃごちゃ、今は不在の息子の部屋は倒れた家具のため、ドアすら開かない始末であった。
 ときには呆然となり、ときには部屋を片付けねばと思い悩み、
 「我が助けは何処より来るや?」(詩編121)
 と祈った。どこから手をつければいいのか、どうしたらいいのか、タンスを立ててみようとのたびたびの努力も、老いた私には空しい努力で、若いのは、いいえ、若いと思っているのは、気持ちだけで、肉体は老いていたことを再確認するのみだった。
 ただ待つ。助けを待つ。
 三週間過ぎたある日、電話があった。
 「もしもし、大丈夫ですか。えっ生きていますね。何か助けは?」
 この声は四年前、日本語を一緒に勉強した中国人の朱さん。そして彼は上海の図書館員だった。電話の声を聞きながら、この人こそ、私の待っていた人だったことを悟った。
 彼は本棚を立てて、たくさんの書籍をすいすいと分類し、ものの見事に私の杞憂を追放し、そればかりか、日本語クラスの韓国人と協力して、我が家全体の大方の片付けに貢献してくれたのだった。
 合間には水も汲み、出掛けには、スーパーの食料品までも届けてくれたりした。これを機に、感謝に満ちあふれた大いなる国際援助を受けることとなった。