新酒の香り

       卯田 信夫 八十歳 神戸市東灘区


 「おーい、地震だ! 危ない! 早く起きろ!」
 地震当日、私は側にいた妻に声を掛けました。いつもならすぐに止まるので、今回もそうなるだろうと思っていました。ところが数秒たつと、「ドシャッ」と天井が崩れてきて、私と妻は一瞬にしてその下敷きになりました。私は手も足も重圧で押さえつけられました。左手だけが辛うじて動いたので、瓦をつかんで何とか外へ出ようとしましたが、どうすることもできませんでした。
 私の家は南側と北側が道路に面しています。南側には、二百年来の建造物で神戸の文化史蹟に指定されている灘の酒蔵が並んでいます。日が昇れば、南か北の道路を誰かが通るだろうと妻と二人声を掛け合いながら待ちました。しばらくして足音がしたので、
 「助けてくれ、助けてくれ」
 と大声で叫びましたが、声が届かないのか足音は遠ざかって行きました。
 どのくらいたったのかわかりませんが、たぶん一、二時間後、近所の方々が私たちの叫び声に気付き助けに来て下さいました。私と妻は一階の座敷に寝ていたのですが、その座敷の上にどすんと二階が落ちていました。
 どなたかが
 「一階か二階か!」
 と叫ばれたので、
 「一階!」
 と答えると、何人かで瓦礫をかきだして私をひっぱりだして下さいました。酒蔵の方が私を背負って 近所の会社のガレージまでつれていってくれました。
 私は背負われながら、助けていただいた皆さんに手を合わせました。真っ暗やみのなかから明るい所に連れ出していただき、助かったのだという思いでいっぱいで、そのときは痛さも寒さも感じませんでした。そのあと妻も助け出していただきました。
 パジャマ姿でガレージに横たわっていると、皆さんが毛布や蒲団、セーターなどをご自分の家から持ってきて着せ掛けてくださいました。南面の酒蔵は全壊し、道路は瓦礫で埋まっていました。私は立ち上がることが出来ない状態でしたが、幸いにも妻はペシャンコの家から怪我ひとつせずに救出されました。
 私を病院につれていこうと、近所の皆さんが救急車の手配をしようとしてくださいましたが、あの混乱で救急車は来てくれず、米屋さんのライトバンでJR住吉駅近くの東神戸病院に運ばれました。しかし、東神戸病院は怪我人であふれ野戦病院のようで、中に入ることも出来ず、玄関前の道路で横になったまま寒さで震えながら一時間ぐらい待ちました。
 やっと順番が来て病院に入れましたが、病室はいっぱいで玄関ロビーの長椅子がベッド代わりで、入歯のない私は何ものどにとおらず飲まず食わずの状態でした。入歯と眼鏡はあとで孫が瓦礫の下から見付けだしてくれてました。
 病院の医療器具も被害がひどく、二日間ほとんど治療らしい治療はなされませんでした。医師も看護婦さんも皆さん必死で治療に当たっておられましたがレントゲンは故障し、水も暖房もなく、私も妻も体力がだんだん限界状態になってきました。
 やっと修理されたレントゲンで検査してもらったところ、肋骨は何箇所か骨折、腰椎も圧迫骨折、折れた肋骨が肺に刺さって肺内出血を起こしていました。また、震災のショックからか胃や十二指腸潰瘍からの吐血があり、もっと設備の整った病院に転院したほうがよいとのことでした。しかし、どこの病院も満員か、もしくは病院自体が被災して機能していないところが多いので、病院としては紹介はできないから、自力で探すようにとのことでした。妻をはじめ駈け付けてくれた親族一同は途方にくれました。
 親族があらゆるつてを頼って病院を探し、なんとか西神戸医療センターが受け入れてくれることになり、十九日の深夜転院しました。
 同じ神戸でも東灘区と西区では被災の程度が天と地ほど違いました。西区の病院は水も暖房もあり設備もほとんど無傷で十分な治療を受けることが出来ました。おかげさまで、八十歳の老人にしては、とても早い回復力だと医師にほめていただいたほど順調に回復し、約一カ月の入院生活ののち、無事退院することができました。現在は大阪府河内長野市の長女の嫁ぎ先にやっかいになって静養させてもらっています。
 私の住んでおりました魚崎はご近所同士の付き合いも古く、老人二人の生活を日頃から皆さんが気に掛けてくださったおかげで私たちは命を助けられました。本当にありがたく思っています。
 魚崎は灘五郷の一つです。二月の寒い日にはあたりに漂う新酒の香りで目を覚ましたものです。そのかつてのたたずまいを一日も早く取り戻してほしいと願っております。