さようならは言いません

     丸草 美恵子 五十三歳 主婦 神戸市東灘区


 一月十七日未明、ものすごい地鳴りと建物や家具の軋む音、倒れる音、それと同時に全身が揺さぶられました。まだ寝床の中にいた私達、気が付くと全身和ダンスやその他色々な物に挟まれて身動きできませんでした。主人に後で聞くと、私は
 「地震よ」
 と言ったまま
 「ワーッ」
 と悲鳴を上げていたそうです。とっさに主人がかばってくれたのは覚えています。
 電灯は消え、家の中は真っ暗、外で大勢の人々の声がしだしました。
 「戸は開くかしら」
 「助かるのかしら」
 と、もうろうとした頭の中で思っていました。極限の恐怖でした。主人がタンスの下から
 「まっときや今助けるからな」
 と言ってくれました。それからどんな風に主人がタンスを持ち上げたのか覚えがありません。私が下からはい出し、やっと主人も抜け出しました。幸いベランダの戸が開いたので外へ出られました。その間も余震は続いて、恐くてガタガタ震えていました。周りを見ると二階建ての家が傾き、二階が一階のようになっていました。
 まさか神戸でこんな大きな地震に遭うと思えず、家具は自分の使いやすいように置き、頭上の棚にも色々の物を載せていました。でも、そのまさかが起きてしまったのです。火災を心配したが幸い時間が早かった事もあり、この地区は火が出なかったので、なんとか大事な物と着替え、洗面具と少しの食料等を持ち出すことができました。それを持ってマンション横の車へ避難しました。
 それから十二日間絶えず起こる余震と、おびただしくけたたましいサイレンの音に怯えながら眠れぬ夜を車の中で過ごしました。
 三日目、やっと近くを歩いてみました。何という惨状でしょう。一戸建ての家や文化住宅の殆どが倒壊し、マンションも倒れたり、コンクリートがはがれ鉄骨が折れ曲がったりしていました。
 多くの家の前にお花やお水が供えられて涙を誘いました。理屈ではわかっていましたが、今だにこの現実が信じられません。主人は「この現実をよく見ておき」と言いました。目を覆いたくなる有様でした。新築して四カ月しかたたない叔父の家も倒れ、私の伯母と従妹の主人そしてその可愛い男の子(六歳)も命を落としました。
 本当に倒壊した音の無い街に変わっていました。洗濯機の音に始まり、午後は布団たたきの音が聞こえ、子供たちの楽しそうな声がしていたのに、その生活の音が聞かれなくなった。そして夕飯の支度の香り。どれをとっても懐かしくさえ感じられた。平々凡々の幸せな生活の証だったのです。今その事に気付くなんてなんと皮肉な事でしょう。
 ガス、水道、電気を奪われ不便な生活の中、夜は真っ暗で不安でお月様が出るとホッとし、朝太陽が出るとその明るさに力が湧き、暖かさに涙がにじみました。余りにも文明の力に馴らされすぎ、恵まれて気がつかなかった。これは現代の試練だと思いました。
 そして地震から六日目の夜、やっと電気がつきました。くじけそうになった時、私だけではない、だから泣いてはいられない、命が助かっただけでもありがたい、頑張らなきゃと思いなおし、平常心を保つように努力しています。
 そんな時、追い打ちを掛けるように自宅待機中だった主人に、会社から「見通しが立たないので」という理由で解雇通知がきました。私達は五十も半ばになって、これから住居の事、仕事と生活のことを考えなければならず、また一から出直さなければならなくなりました。
 こんな中、森南地区は防災モデル都市計画にも入ってしまい、生活の落ち着くのは、何年先になるのやらと、不安と焦燥に駆られてしまうことも、しばしばです。
 今三月初旬、主人は種々の事務手続きで区役所や職安を、何とか元気で走り回っています。
 一月の予告の無かった地震より、今はもっと、もっと来るかもしれないという、予告のある地震に怯えています。夜は浅い眠りしか出来ず、すぐ目覚めてしまいます。あの時の
 恐怖が、今も心にしみついているからなのです。
 もう少しで二カ月というのに、まだ水道もガスも出ていません。お食事も頂きにいっています。でも、今は皆様のご好意に甘えず、一日も早く自立したいと思っています。これから頑張って、将来のことを考え、生きていくすべを見つけねばなりません。今私は、なるべく笑顔でいたいと思っています。「笑う門には福来る」という言葉を信じ、希望を失わず健康に留意して、前を向いて強く生きていきたいと念じています。
 電話を切るとき、人と別れるとき、
 「さようならは言いません、またお逢いしましょうね」
 と言います。
 私は被災者になってからこの言葉を使うようになりました。