国際電話

      和田 多美子 三十三歳 主婦 神戸市須磨区


 八カ月を過ぎたばかりの蓮美が、むずかり出した。「寒いな、いやだな」とまだ半分ぐらいしか目が覚めず、また眠ってしまいそうになるのを、無理やり蒲団から抜け出した。
 明かりはビデオのデジタル時計だけだった。辺りはまだ真っ暗。パジャマのボタンを開け、左のカチカチになったオッパイを出して四つん這いになった途端、あの時刻がやって来た。
 ゴーとすさまじい音とともに、蓮美の頭上の収納用のスチールの箪笥の引き出しが飛び出してきた。何が何だかわけが分からず、とにかく、驚きのあまりむずかるのも忘れて、口をつぐみ目を白黒させている蓮美を抱き上げようと必死になっていた。
 四つん這いのまま、何度も壁に腰をぶつけながら、右手で箪笥を押え、左で蓮美の胸倉をつかんで引っ張り出し、そのまま抱きかかえて立ち上がった時、揺れが止まっていた。
 もうすぐ三歳になる悟も起きていた。放心したように立ちすくんでいる私の右足にしがみついていた。悟も抱き上げた。右手に十三キロの悟、左手に九キロの蓮美。けれど不思議と重さは感じなかった。
中国人の夫も起き出して階段が大丈夫か確認していた。私よりも冷静だ。安心した。二人でどうしたものかと話していると、外から近所の人たちの声が聞こえた。隣のおばさんがしきりに私の名前を呼んでいる。とにかく、外へ出ようということにした。築三十年の木造モルタル住宅。私も夫も家が崩れる不安にかられた。悟を夫に預けて、空いた方の右手で毛布を持って行こうと思った。
 奥尻島の地震のニュースを見た時、みんなが毛布をかぶっていたのを思い出したからだ。蒲団をはね除け、毛布をつかんで引っ張ったがなかなか取れない。玄関から夫が早くおいでと呼んでいる。私は、
 「焦っているからだめなんだ、落ち着け、落ち着け」
 と、自分に言い聞かせて、なんとか毛布を手にした。後から見ると、蒲団の上に小さな箪笥が倒れていた。
 玄関は下駄箱でふさがれていたので、横の窓から出た。裸足のまま、二人の子供と毛布を抱えて表の道路まで歩いた。夫は下半身パンツ一枚だったので、すぐには出られず下の部屋でズボンをはいてから出てきた。
 近所の人が集まって、口々に、「こんなことがあるなんて」「ほんまにびっくりしたわ」「大丈夫やった」「こりゃえらいことやで」と言っていた。
 前の家のご夫婦は、てきぱきとみんなの世話をしていた。ご主人は、少し離れた駐車場から車を回してきて、真っ暗闇を明るくしてくれ、灯油缶に枯れ枝を集め焚火をしてくれた。奥さんはコーヒーを作りみんなに紙コップでふるまってくれた。
 南の空は赤黒かった。近所の青年が原付で周りの状況を見に行って報告していた。
 「あかん、メチャメチャや。板宿より向こうは行かれへん。長田の方は火の海や。この辺だけやで、家が壊れてないのん。口の川の方でも火事があったわ」
 「ええっ」
 須磨区妙法寺字口の川。そこには、両親と姉の家族の住む家と、妹の家族の住むアパートもある。すぐさま夫がバイクで様子を見に行ってくれた。両方とも無事だった。
 実家はすぐ裏のアパートまで全焼したが、近所の人たちが庭まき用のホースや井戸水のバケツリレーで延焼をくい止め、反対側から自治会の役員が消火栓を使って何とか消火したらしい。
 「風向きが違っていたら、水が出なかったら、考えただけでもゾッとする」
 と、父が後で話していた。
 その頃、私は前の家の奥さんの好意で、車の後部シートに子供たちと座っていた。ラジオはずっと地震のニュースで、聞けば聞くほど怖くなっていた。数時間後、三々五々近所の人が家に戻り始めたので私たちも家に帰った。
 家の中は、地震前とさほど変わっていなかった。どうやら偶然にも家具の向きが良かったようだ。片付けは夫がしてくれ、私は子供たちを連れ、当座の着替えや紙おむつを積めるだけベビーカーに積み、歩いて実家に向かった。
 地下鉄もバスも止まっていたので、大勢の人がそれぞれ大きな荷物を抱えて歩いていた。行き交う車も、蒲団や家財道具を満載しているものが多かった。
 わが家の被害は、屋根瓦が半分落ち、水道管が割れ、外壁の一部が崩れたり亀裂が走り、トイレや風呂場のタイルがひび割れ、食器も数十枚が割れた。り災証明は「半壊」だった。それでも地震以前とほぼ変わりなく住んでいられる。
 それよりも深刻なのは、夫の失業だ。夫は地震前から前の会社を一月末で退職し、二月から新しい会社に転職し三月には正式採用になる予定だった。ところがクビになってしまった。あわてて、職安や役所に出かけてさまざまな手続きをした。しかし、地震のない中国上海出身の彼にとって、今回の震災はショックが大きく、その上にクビ。ダブルパンチでさすがにつらそうだった。
 見るに見かねて、思い切って帰郷を勧めた。夫は四年近く一度も帰国していなかった。再就職してしまえば、今度はいつ中国へ帰れるか分からない。留守中、私一人で幼い二人を育てるのは大変だけど、一家の大黒柱がしょげてしまってはもっと大変だ。ためらう夫の背中を押すようにして、送り出した。失業した二日後、夫は上海行きの飛行機に乗った。
 大地震は一瞬、数十秒だけ。けれど私たち四人家族にはこれからの人生がある。数年後「あの地震のおかげで……」で始まる話が、明るく楽しいものになるようにしたいと、夫と国際電話で話し合った。