通勤

      木村 哲二 四十五歳 会社員 神戸市灘区


 その瞬間、頭の中が真っ白になり、どんな行動を取ったのかほとんど記憶していない。隣に寝ていた妻の悲鳴が聞こえると同時に激しく揺れた。それがどんな方向でどのくらいの時間であったのかも定かではない。ただ
 「これ以上揺れがひどくなるとマンションがつぶされ死ぬな。早く納まってくれ」
 と蒲団の上で起き上がれないまま、そう願っていたように思う。
 揺れが納まるまで不覚にも隣室に寝ていた二人の子供のことに思いが到らなかった。さらに部屋中に散乱した落下物の音さえも覚えていない。その時、妻は揺れの最中を子供たちの部屋まで四つんばいになりながら様子を見に行き、気付いたときには居間に連れてきていた。
 暗闇の中、とにかく着替えだけを済ませ、
 「とんでもない被害が発生しているのではないか」
 と感じつつも、恐怖と寒さで行動を起すことができなかった。ラジオをつけると震源地は淡路島北部で、神戸は「震度6」と伝えていた。
 空が白みかけてきたので外に出、高台から神戸の街を遠望すると十カ所くらいから火の手があがり、静寂の中、炎と黒煙はまさに地獄図であった。とりあえず家の中の状況を確認し、子供たちも落ち着きを取り戻してくると、勤務先の大阪市西淀川区の工場が気になってきた。子供から自転車を借り家を出たのが八時半であった。
 阪急六甲の下あたりから塀が倒れたり、屋根瓦が落ちているのが見られたが、あれだけの激しい揺れだったからこれくらいの被害は仕方ないと思いつつ、山手幹線まで来ると、我が目を疑う悲惨さであった。しかも道路は大渋滞である。
 2号線に出るとさらに悲惨さも増し、とても正視に耐えられる状況ではなかった。芦屋も越えて西宮に入るとそれでも家屋の倒壊はまばらになり、43号線に出てみた。そのとたん高速道路の落下を目にし愕然とした。武庫川を越えると町並みはいつもとほとんど変わらず、今までのことは悪夢であったのではないかと錯覚したほどである。
 道々、何度も家の方に電話しようとしたが行列と不通でままならず、ようやく家に通じたのが尼崎に入ってからであった。妻からとにかく調理不要の食料品を買ってきてほしいと頼まれ、スーパーで買物をした後、十一時半に会社に着いた。
 会社の敷地内は液状化で汚泥が吹き出し、あちこちで地盤沈下が見られた。出勤している者も通常の五分の一程度で、被害状況の調査と汚泥の処置だけで早々に退社した。
 帰りは43号線を通ったが、東灘区で見た高速道路の倒壊はまさに今回の地震の破壊力を見せつけるものであった。灘区へ入り、JR六甲道駅西側の落下した高架橋をくぐり抜けると同時に火災の煙に巻き込まれ、一目散にかけあがった。
 上方を見ると灯が見えるではないか。我が家に電気がきていた喜びと同時に、テレビに映し出される惨状を見て改めて愕然とした。そしてその日一日で千人以上の遺体が確認されたことを知り、今日の自分の一日は一体何であったのか。なぜあの惨状を直接目にしながら救助の手を差し伸べることができなかったのか。我が身の腑甲斐なさが今でも恥ずかしい。
 それでも立場上、一刻も早く会社の復旧を考えねばならず、翌日も息子の自転車で我が家を出た。またも道路は大渋滞である。一体何を考えて車で通勤しているのか。まわりの惨状が目に入らないのか。歩道には毛布にくるまって夜を明かした人達があふれているではないか。まだ倒壊した家屋の下に人が生きているかも知れず、救助活動を妨害しているとは思わないのか。運転者の心理を疑うと同時に改めて見る惨状に涙したものである。
 会社で働いている間は、一時的にしろ悲惨な状態を忘れることができた。それにしても大阪地区にあって工場がこれだけの被害を受けたことを考えれば、神戸方面の工場の被害の甚大さを思わずにはいられない。幸いにも工場は一週間で応急復旧でき、生産を再開できた。
 私の自転車通勤も一週間続いたが、単に通勤だけでなく我が家の食料の買い出しも兼ねていたため、帰りは大阪、尼崎で食料を買い求め背中のリュックを満杯にして家族の待つ我が家に持ち帰ったものである。しかし往復六十キロの自転車通勤はさすがに身にこたえ、週末に帰宅したときは精根尽きてしまった。
 そのため翌週、ミニバイクを購入し、現在バイク通勤している。運転マナーの悪さで不評をかっているバイクであるが、とにかく寒かろうが雨が降ろうが黙々と、できるだけルールを守って運転している。住む家もなく避難所やテントで生活している人達のことを考えると何でもないことである。救助活動や消火活動の遅さが問題にされている。最近の変わってしまった風景を見るにつけ思うことであるが、市民としてそれ以前に考えなければならないことがあるのではないだろうか。