「砂の女」

    パトリシア K.トンプキンズ 五十歳 大学客員教授 (アメリカ)


 地震が起こった時、私は米国にいました。息子が電話をかけてきて、「テレビを見て」と叫びました。一時帰国で神戸を離れたばかりだったので、とても信じられない思いでした。CNNを見るだけでつらく感じ、特に考えられないほどの負傷者について思いを馳せ、再び関西空港に着陸するまでには、「何か」をしようと心に決めるほどになりました。私の乗った飛行機は被災者への救援物資が満載され、積み荷のバランスを取るため、離着陸時には乗客全員が後方へ移動しなければなりませんでした。着陸直後に思いついたのは、阪神大震災の避難者に自分の家に住んでもらうことです。個人的なつながりで三人の学生を住まわせたことがあり、そのうち二人はその時点でまだ住んでいました。これを私の活動の第一歩としようと考えたのです。
 もちろん、「もし被災地に入って、また地震が起きたらどうしよう」との懸念はありましたが、一カ月経った時点で被災地に行って、少なくともボランティアを行おうと決めま
 した。日本語をほとんど話せないということは、気にはなりませんでした。
 私たちは枚方駅を七時二十分に発ち、JR神戸線で芦屋に向かいました。西宮を通過した時です。瓦礫となった無数の木造家屋、ちょうどテレビで見たのと同じ光景が電車の窓から飛び込んできました。
 芦屋の事務所で、私たちは「ボランティア」の腕章を受け取りました。そこは私たちのようなボランティアを管理する事務所で、当初五人でスタートして今では三十人もの人が働いています。一階には百人以上の人々が床で生活しており、ボランティアとしての登録をするため、私たちはその人々の間をかきわけて進みました。広い空間に小さな毛布で生活している人々のそばを割り込むように通るのは、申訳ないような気にさせられます。
 私たちは、そこに半ば生活しているボランティアの人達にすぐに会いました。この人達は、床に寝て、働き、そして食事をとる、というサイクルを果てしなく続けており、時には死んだように眠り込むこともあるそうです。この人達の姿を見て、私は口では表現できないほどの尊敬の念を持ちました。
 私たち約十五名のグループはシャベルと自転車を支給され、一軒の家へ行きました。その家のある一ブロックは、液状化現象で、その時でも砂が沸き出していました。私達の仕事は、砂に埋もれた庭で一輪車に砂を入れ、道路わきの長い砂山へと砂を運ぶのです。裏庭は、一フィートから二フィートの厚さの砂で埋もれています。それは激しくはないが、苛酷な作業でした。そのままだと、倒れた石灯籠、植木、庭、すべてが砂に埋もれて行きます。
 ふと、私は映画の「砂の女」(安部公房原作)を思い出しました。果てしなく砂は沸き出し、ちょうど地球がぽっかりと開き、その中心から蒸気が出てくる代わりに砂が付近に流れ出たように見えます。そこに住んでいる婦人は、とても自分一人ではできなかったと言い、私たちの作業に大変感謝してくれました。その朝、私たちは四軒の家を掘り起こしました。
 次に私たちは自転車で、元は六階建だったアパートに向かいました。そこでは、建物の前の膨大な瓦礫の山を抜けて、二階の窓から家具を運び出すのです。瓦礫は砂や尖ったコンクリートの破片、こわれた家具などに割れたガラスが混じり、恐ろしいまでに危険でした。これは崩壊した一階のもので、そこでは六人が瓦礫に閉じ込められ、そのうち五人が救出されたとのことです。少し見上げるだけで、焼けてくずれかけた五階と六階が目に入ります。
 この建物を見上げながら、私は「砂仲間」のボランティアの一人に、私がこんなことをする理由を語りかけました。もし何百万トンものコンクリートに埋められ、そして死ぬ前にだれかが救出してくれたら、どんな思いがするのだろうと考えたからです。こんな考えはとても耐え難いので、多分こんなことを考える人は多くはないでしょう。
 ふとかたわらを見ると、太陽の下で普段と変わらぬ花々が、何が起こったかも知らず優雅に咲いていました。私ができることは、私の体で自分の気持ちを表現するだけです。絶望の叫びを聞いた私たちは、来なければなりませんでした。とても他人事とは思えなかったのです。