透析治療

      今井 俊作 三十九歳 団体職員 神戸市兵庫区


 十七日の朝、私は五時十五分過ぎに起き、四十六分にはトイレにいました。
 いきなり激しい上下動があった後、二、三十秒くらい両側から引っ張られるような横揺れが襲いました。すぐに電気が消え、ウォッシュレットの便座も冷たくなりました。私は素早く後始末を終えると、両親に声をかけましたが、幸い二人とも無事だったので、まず母にロウソクに火をつけてもらい各部屋の状態を確認しました。
ラジオのニュースで、神戸が震度6と聞き、納得しました。まだガスと水道が使えたので、この日は中二日で川崎病院へ透析治療に通う予定だったこともあり、ご飯を炊き、あり合わせの食事をすませ、七時三十分には家を出ました。
 バス通りは信号が消え、あちこちの家の瓦や壁が落ち、道路には亀裂が入り、凹凸ができて市バスが動かなかったので、仕方なく歩き始めました。足元には瓦やガラスの破片が散乱し、電線があちこちで低く垂れ下がり、自転車やバイクが倒れていました。
 ガスの異臭が鼻につき、あちこちで火事が起っているなか、足元にも頭上にも注意しながら病院に向かいました。
 八時過ぎにようやく病院に着くと、廊下は真っ暗で、待合の腰掛けは一様に負傷した人々で埋まり、当直医と近くの寮から駆けつけた看護婦がテキパキと治療にあたっていました。その時点で病院ではガスが使えず、治療食が作れないとか、新生児用のお湯の確保に職員の方々も頭を抱えておられました。
 そして、最新の手術室や透析室も、地震で貯水タンクが壊れ、火災防止用スプリンクラーが誤って作動して水浸しとなり、自家発電装置が止まり、結局、その日は透析治療を受けられませんでした。
 幸い翌日、高砂病院で受け入れてもらえる旨の連絡が入りました。タクシーもバス、電車も動かないので、てっきり病院側で救急車を手配してもらえるものと思っていたところ、実際には患者の身内のマイカーに乗り合わせることとなり、結局三木市の服部病院へと向かいました。
 一時間あまりの道のりですが渋滞に巻き込まれ、四時間かかってようやく病院にたどり着きました。休みなしに救急車やパトカーで運ばれてくる重症患者が優先され、さらに受付で八時間近く待ち続け、結局十一時半になってやっと順番が回ってきて、治療が終わった時には、既に真夜中の三時前になっていました。
 私はそのまま入院することとなり、継続して治療を受けることができましたが、通院なら朝まで病院のロビーで夜を明かし、また別の受け入れ施設を探して右往左往していたでしょう。
 また、入院を希望しても断られたり、施設間のたらい回しに遭ったりです。病院と避難所との移動中に亡くなられた方もありました。入院できた人も大半は着のみ着のままで運び出され、金銭の持ち合わせもなく、家族との連絡もとれないまま病室もロビーの待合も患者であふれ、男女混合の「野戦病院」さながらの様相を呈していました。
 そんな状況下、服部病院のスタッフは、三十床の施設を十七日から三日間、一日五回転、のべ四百五十人の治療をこなし、丸二週間も泊まりがけで、治療にあたってくれました。
 また、神戸から患者を送り出した住吉川病院のスタッフと看護婦のみなさんや全国から駆けつけてくれたボランティアの方々の協力があったからこそ、私達は助かりました。
今回の震災で痛感したのは、日頃から施設間のアクセスと、災害時の患者の運搬手段を確保することが重要だということです。
 県内各市町村間だけでなく、近隣府県までも視野に入れ、電話が通じない場合まで想定して対応を考えておかないと、ギリギリの状況下で生命を脅かされている透析患者をみすみす見殺しにする結果になりかねません。
私自身も親身になってお世話いただいたこの度の御恩に報いられるよう、微力とは存じますが、新しい神戸の復興に協力したいと思っております。