病魔と闘った娘の死

      山本 マリ子 五十二歳 主婦 神戸市須磨区


 一月十七日早朝、突然襲った直下型大地震。大きな縦揺れと横揺れのため、我が家も倒壊。お互いの家族の名前を呼びあいながら、無我夢中で外へ逃げ出しました。
 ところが、娘の留美はぜんそくの病気があるため、いつも吸入器の薬が手元にないといけないのです。その時は逃げ出すのに夢中で、薬のことまで考えていなかった。
 助かった時、娘は吸入器を持っていないのに気付きました。娘は不安が先に立ち、いきなり息が出来なくなり、ショック状態でたおれてしまいました。
 逃げ出した場所が運悪く、近所の二階の屋根の上だったので、下に降りるのに時間がかかってしまいました。
 娘を抱きかかえている私達に気付いた神田さんという方が、車ですぐ西市民病院まで運んでくださったのですが、あまりにも時間がたち過ぎていたために、六時三十分、手当のかいもなく二十三歳の若さで亡くなりました。
 今度の阪神大震災により五千人以上の方が亡くなられました。私達の娘もふくめてテレビ、新聞紙上では死亡者として名前が掲載されましたが、親や子供を亡くした家族にとっては、とてもそれだけではすまされない気がします。
 私達の娘、留美は平成二年、高校を卒業してお菓子をつくる会社に入社。社会人としてはりきっていた矢先、少しずつですが病魔におかされていたのです。
 トイレで用を足した後、立ちあがれなかったり、手が思うように上にあがらなかったり、フトンから起きられないと、身体の不調をうったえました。これはおかしいと、西市民病院に入院していろいろ検査し、筋肉の細胞を取って調べてもらいました。
 膠原病の一種、多発性筋炎という病名で、身体の中の筋肉の細胞が悪くなって動けなくなると言われたのです。
 その病気にはプレドニンという薬しか効かないとのことで、最初は十五錠ぐらい飲んでいました。その他にもぜんそくの病気もあり、毎日たくさんの薬を飲んでいました。それだけでも大変なのに、副作用で顔が赤く丸くなるのです。
 動かなければ筋力がおとろえるので、治りたい一心でリハビリもがんばっていました。退院してからも、両下肢機能や左肩関節機能に著しい障害があり、二級の身体障害者手帳を持つ身になったのです。
 難病とたたかいながらリハビリもしてがんばったおかげで、五年目には車イスから自分一人で歩けるようになったのです。
 西市民病院から神戸大病院に移り、月に二、三回通院して採血と尿の検査をして結果を聞くのですが、時々尿に筋肉の細胞がとけて流れ出ていると先生に言われると、また再発するのではないかと不安になりました。
 でも、娘はいつも明るく、同じ病気の友達と文通してお互いに励ましあい、友達の病気の事を心配したりしていました。家族の誕生日には少ないこづかいの中からプレゼントを必ずしてくれ、同級生の誰かが結婚して子供が生まれたと聞くと、すぐにかわいい服を買って持っていっては自分の事のように喜んでいました。
 また、病気の事が書いてある本を読んで、プレドニンを飲んでいても結婚して子供も産むこともできるそうだから、私も二十五歳位までに恋をして結婚もして子供も産みたいなあと、夢をいつも話してくれていました。
 特に母親の私とは気があい、病院へ行くのも買い物するのもいつも一緒だったので、娘が亡くなってからは何をしていてもあの明るい笑顔を思い出して、毎日がむなしく悲しみの心でいっぱいです。
 長男とも年が近かったせいか、二人でよく旅行へ行っていました。長男は何も言いませんが、きっと淋しいと思います。
 亡くなった多くの人達も家族があり、それぞれに夢や希望があったことと思います。
 それを無残にも打ちくだいてしまったあのいまわしい地震。私達が住んでいた長田区日吉町も道路をへだてた向かいの住宅、市場などはまだ焼け跡も痛ましく、あの場所に行くのはとてもつらいです。
 我が家もまだ倒れたままで、ほとんど物を出すこともできなくて、今はとりこわすのを待つばかりです。
 現在は須磨区の方に移転していますが、以前の長田区日吉町四丁目あたりは買い物に行くのもとても便利で住みよい所だったので、一日も早くもとのような楽しい町になり、私達親子三人、娘の思い出をしっかり胸にきざんでまたもとの場所に住めることを願っています。