別れの手紙

      川田 こずえ 二十二歳 看護婦 神戸市中央区


 それは予想も出来ないできごとだった。前日の十六日、私は風邪をこじらせ四〇度の熱を出し、仕事を休んでいた。一月十七日五時三十分、いつものように目覚しが鳴り、いつものように朝が始まるはずだった。熱のためか頭はボーッとしており、まずはお茶を飲もうと湯呑みをもった瞬間、「グラッ」と揺れを感じた。私はそんなに熱が高いのかしら、座っているのに立ちくらみが、と思った。
 だがすぐに違う、地震だという冷静な気持ちと、夢だ、何かの間違いだという思いで混乱した。一回目の揺れから数秒後電気はすべて消えた。静かな闇の中で、物が落ちてくる音だけが不気味に響いていた。
 激しい揺れが続いた。私には、その時間がどれくらいであったのか思い出せない。おそらく数十秒に違いなかっただろう。だがとてつもなく長く感じた。もうダメだ……と真剣に考えた。
 一階には、約四十名ほどの寮生が廊下に座っていた。私が住んでいるのは、新神戸駅にほど近い看護婦寮である。皆が思い思いに話をしていたが、ほとんどが仕事場である病院の話であった。そこにはまだ深夜勤をしている看護婦と、そして多くの患者が不安に震えているに違いなかった。
 私は正直なところ深夜勤でなくてよかったと思った。不謹慎だとは思うが、新人の私には足を引っ張るだけで何も出来なかっただろう。私は、とにかく行かなければ、病院に行かなければ、と思った。熱があることなどすっかり忘れていた。
 外がほのかに明るくなってきて部屋へ戻った。時計は六時三十分を指していたが、さっきまで動いていたはずの目覚しは五時四十六分を指して止まっていた。
 寮を出る前に公衆電話から実家に電話した。
 「今朝、地震があったの。ものすごかったの。火事も出てるけど私は大丈夫だから。仕事に行くからテレビ見といて」
 と短い言葉だったけれど、母にとってこの電話は私の消息を知るありがたい電話だったと言う。その後数時間、電話は全く通じなかった。
 私は寮の前に止まっていたタクシーに先輩五人と乗り込んだ。タクシーは、いつもと同じ道を通っているのに、それは全く違う光景だった。私は戦争を知らずに育ったが、戦後のようだと思った。
 信号機は全て止まり、車がメチャクチャに走行していた。タクシーの中でラジオを聞いたが、アナウンサーは興奮のあまり声がうわずっていた。ビルはおもちゃのように壊れ、神戸大橋につながる高速道路の支柱はぐにゃっと曲がっていた。さいわい、神戸大橋は落下していなかった。神戸大橋を渡りきりポートアイランドへ入ろうとしたが、そこはまるで湖のようで、車が通れるとは思えなかった。後ろからどんどん車が詰めてきた。その中には救急車もいた。
 一人の中年の婦人が走って来て
 「助けて。通して下さい、娘が娘が……」
 と泣き叫んでいた。私たちはそこから歩いていくことも出来なかった。車は水びだしになり、車からも降りられない状態だった。
 するとタクシーの運転手さんが
 「行ってあげよう。どうせこの車は廃車にする予定やし、あんたら看護婦やろ、今はあんたら五人が病院の戦力や」
 と、デコボコで水びたしの中を車を走らせてくれた。私は水びだしの島を見て沈むかもしれないと思った。私たちの車に続く車はいなかった。後で聞いた話だが、すぐその後、橋は通行止めになったらしい。運転手さんはどうしたのだろうか。
 どうにか病院に着いたが、自家発電しているはずの病院は真っ暗で、てすりだけを頼りに病棟まで昇った。病棟には青ざめた顔の夜勤の看護婦と、隣の寮から駆け付けた看護婦がせかせかと働いていた。
 ベッドはストッパーがかかっていたのに移動し、あらゆる物が落下し破損していた。その片隅に患者は集まり震えていた。幸いにも怪我や急変した患者はいなかった。
 看護婦という使命感と余震に対する不安と恐怖感、これからどうなるのかわからなかった。水も電気もつかないし、病院はどうなるのだろうと真剣に思った。昼前後だったと思うが電気がついた。水は蒸留水のボトルを使用した。昼前にはほぼ半数のスタッフがそろい少し安心した。
 それから数日間をどう過ごしたか定かではない。とにかく無我夢中だった。一カ月は暖房もきかず、水もない病院らしくない病院だった。
 しかし、一人一人の責任感とアイデア、温かいボランティアの方々のおかげで無事に経過した。私は看護婦という仕事でなければすぐに神戸を離れただろう。それは家族も同じで親も帰って来いとは一言も言わなかった。
 地震から一カ月半、私の所に一通の手紙が舞い込んできた。それは付き合っていた彼氏からの別れの手紙だった。
 私は一カ月、自分のことに一生懸命だった。
 彼の家は明石で被害はなかった。地震の後一度だけ会った。私は私の生活で精一杯。普段の生活をしている彼とは考え方も違っていたと思う。
 しかし私には、一番彼が必要だった。私は全国から駆けつけてきてくれるボランティアの人々や、世界各国から寄せられる救援物資など、人の温かさに支えられ涙の出る思いで毎日を過ごしていた。
 手紙は地震のように突然で信じられなかった。涙さえ出てこなかった。私は地震で様々なものを失い、一番大切だと思っていた人の心も失った。
 地震後、街は復旧してきているが、人の離れていった気持ちはもう元には戻せない。私は今仕事とホテルオークラのファイトの文字、そして大勢の人に励まされ神戸っ子の意気で頑張っている。