ブロックのかまど

      村岡 美恵子 二十九歳 看護婦 神戸市灘区


 一月十七日、早朝五時四十六分、震度7の地震が神戸を襲い、戦後最悪の事態となりました。幸いにも私は実家の北区にいたため、家族とも怪我もなく無事でした。
 家の周りでは消防のサイレンが鳴り響き、黒い煙が立ちのぼり、辺りは暗く情報を得るのにも電気も電話も不通だったため、何も分からず家族を残し、不安と恐怖感に怯えながら歩いて勤務先の病院に向かいました。
 神戸、三宮、灘まで向かう道のり、倒壊した住宅やビル、一面に続く焼け野原、ねじれ曲がった橋脚、数十秒の地震でこれほどひどいことになっているとは。何度足を止め自分の目を疑ったか分かりません。
 安定した生活を一瞬のうちに失い、途方にくれる人もいれば、家族を潰れた家から懸命に助けようとしている姿も沢山目に映り、被災の惨状に息をのむばかりでした。
 何時間もかけて歩き続け、病院にたどり着くと暗闇の中、大勢の人が病院に運ばれていました。その半分以上が、毛布に包まれ死亡確認のために移送されてきた方々です。その中でも亡くなった子供のそばに一緒に横になり、泣き叫ぶ母親の姿に目が止まり不憫な気持ちで一杯になりました。
 廊下は血まみれで病棟に上がると、暗い中を小さな懐中電灯を持って走り回り、懸命に救命処置をしているスタッフの姿がありました。どんな大きな災害に襲われた時も、病院には災害以前から多くの患者さんが入院しているため、私達は家族と家の安全を確認し、一刻も早く駆けつけなければなりません。
 限られた非常燈下、心肺脳蘇生に臨むことから始まり、自力での呼吸が困難な人のために次々に人工呼吸器を装着していくのですが、呼吸器の台数が足らず、注射薬も不足し、移動する部屋もありません。
 絶え間なく重症患者が担ぎ込まれ、廊下での処置が夜間まで続き、皆で懸命に処置したにも関わらず、ほとんどの方に十分な治療、看護も出来ないまま心臓呼吸が停止するのを見守るしかなかった辛さは、スタッフ全員忘れられないことだと思います。
 病院では、三十一人のご遺体を安置することになりました。多くの方のご遺体を担架で運び、その重みに一人一人の方の今まで歩んできた人生の重みや無念さを感じました。
 電気・水道・ガスといったライフラインが絶たれた現場では、被害を受けた重症患者への対応は不可能でした。人工呼吸器もなく手術を行うことも出来ない状況の中、残された確率に期待を掛け、災害地外の病院への転院が検討されました。しかし地上の交通は渋滞しており、何時間もの交渉の結果、自衛隊の協力でヘリコプターでの移送を行うことが出来ました。先日、そんな患者さんの一人から回復の知らせを聞き、嬉しさのあまり声を出して喜びました。
 病院には現在でも大勢の患者さんがそれぞれの疾患を背負い不安と緊張の中で葛藤しながら入院されています。その懸命に治療に立ち向かっている姿に多くのことを学び又、励まされます。
 家族を失い、家や仕事をなくし、これからの人生何にすがり、生きていったらよいかの不安、疾患や障害を持ちながら、一人の人間として人間らしく生きるとはどういうことか、そのために私達は何を援助すべきなのかを考えさせられ、限界を知らされることも多くあります。しかし身体的援助と並行して精神的援助を進める様、今後も努力していくつもりです。
 ライフラインの重要性を改めて痛感し、日頃あまり考えることのなかった「水」の大切さを感じました。毎日、皆で十リットルある水を何往復も運び、顔を洗ったりトイレに行くのも最小限にしました。ガスが止まったため、病院の給食の方がブロックでかまどを作り、御飯を炊き一日二回の食事が配られましたが、本当に辛く惨めなものでした。
 震災後、連合会病院より救援物資が何時間もかけて届けられました。食糧、飲料水、衣類、多量の医薬品の救援を手にする時の嬉しさは格別なものでした。全国各地から駆けつけられたボランティアの懸命な活動、全国または海外から善意と救援の手、被災された皆さんからの励ましの言葉や様々な形でのご支援に勇気づけられました。
 職員の中には、家屋の倒壊で今なお不便な生活を余儀なくされ、不眠不休の医療看護をしている人もいます。美しく輝き続けた神戸の街が倒壊し、崩されていく姿に唖然とし淋しさを感じます。失ったものが多い者ほど、悲しみを受けた傷が深い者ほど、やさしく強く復活に向けて生きることの大切さを知り、学ぶことができます。
 皆が愛した神戸が一日も早く、安定した生活に戻れるよう、共に頑張っていきたいと思います。