涙のペットボトル

       大江 与喜子 四十一歳 病院長 西宮市


 年賀状をまだ片付けもしないまま立春が過ぎ、いつの間にか春を待つに遠くない頃となりました。一生のうちでおそらく一番長い三週間が過ぎようとしています。今日の当直室はとっても静かです。
 いつもより次々と患者さんのあった一月十六日の二次救急当直の夜でした。もうそろそろ休めるかなと思いながら、三人の患者さんと総婦長と外来診療室にいました。立っているとトランポリンの上にいるようでした。
 「なにこれ?」と三回思いました。
 「やっぱり地震だ。こんなはずはない」。患者さんと一緒ではあわてるわけにはいかず、怖いけれど、落ち着いた振りをせざるを得ませんでした。
 それから、入院患者さんを手分けして看に行き、ポケットのペンライトでとりあえず全員の無事は確認しました。しかし、ガスの匂いが濛々と立ち込め、一方では自家発電機が焦げ臭い。
 患者さんの避難開始です。手当たり次第、ほとんどが担送の患者さんでした。白血球が少なく滅菌装置を使っている方もいました。普段乗れない方も無理やり車椅子に乗せ、毛布やシーツに乗せて患者さんを引っ張り、空いたマットを庭に並べ、そこへ引っ張り出した患者さんを並べていきました。ベッドにしがみついてなかなか動いてくれない方。
 「お願いだから言うこと聞いてよ」
 私たちも死に物狂いでした。構内の看護宿舎から心配して駆け付けてこられた家族の方々もみんな必死でした。いつの間にか陽が昇っており、結果的に火災はなく全員無事にほっとしました。それも束の間、いつの間にか、ガラスで切った、なにかにぶつかった、火傷した、などと、開けっ放しのあちこちの入り口から人々が血を流してやってきました。
 いつもならもう来ているはずの医師がまだ誰も来ません。通りに一番面した作業療法室を仮の処置室と決めるまで、うろうろしながら馴れない外傷の処置をしました。どれ程の被災かもわからず、その頃はガーゼ、消毒綿などもふんだんに使っていました。
 三時間以上歩いてきたと言う医師が到着。ふもとの町の悲惨な状況を聞き、やっとラジオの音も耳に入ってきました。完全に倒れたロッカーを起こし、一旦外に避難させた入院患者さんをもどしたりしました。
 そのうちに、若い大学生の遺体が運ばれて来たときには絶句しました。私たちの病院は救急車の通り道からはずれ、火災もなかったため目を覆うような患者さんはそれほど多くはありませんでしたが、長い長い一日はいつまでも終わりませんでした。
 それからの何日かは仮設外来、仮設病棟で診療しそこで仮眠を取りました。
 まだ家族が土砂に埋まっていると、点滴をしながらラジオの死亡者発表に耳を傾ける男性。自分は助かったけれど、同じ下宿の友達が亡くなったと、土砂に埋もれてけがをした下半身の回復を待つ大学生。
 余震ごとに拡がる亀裂、水も暖房も無い中で、高圧蒸気滅菌装置も壊れ、X線、コンピュータ断層撮影もだめ、血液センターに電話が通じなかった当日はぞっとしました。そういう状況下にやっと通じた電話で、遠くの病院の先生や、友人、業者さんなどから水、毛布、カイロ、医療材料など救援物資の申し出があり、思わずいろいろ頼んでしまいました。どれほど嬉しかったか表す言葉を知りません。
 敷地の地割れや施設の亀裂などが明らかになっていく中、自宅が全壊、半壊にあった職員さえも、病院と患者さんを守るため働いてくれました。が、やはり入院患者さんをより安全な地域へ移転せざるを得ないと結論を出し、二週間目は転院業務でてんてこ舞いでした。
 病院探しに協力してくださった方々、快く慌ただしい転院を受け入れてくださった病院の方々、ありがとうございました。そして有無を言わず転院してくださった患者さんたち、本当にごめんなさい。一人一人の患者さんを送り出す度に、味わったことのない寂しさが込み上げました。がらんとなった病棟の詰所で何も言わない看護婦さん達のミーティングがもたれていました。
この何日かに流れた涙はペットボトルにとっておくべきでした。被災者や惨状に向けた悲しみの涙、患者さんたちとの別れの涙、職員皆の頑張りに対する感謝の涙、そして心身共にしんどい時に流した涙をためたペットボトルを。
 外来だけとなった今、病院は新たな復興に向けて動き始めました。地域住民のために、被災された方々のためにも、こんな時こそ病院としての使命を果たそうと、近隣の避難所の訪問を開始しました。福祉と医療、行政と住民、ボランティア活動と保険医療など、様々な疑問を感じながら日々忙しく地域医療復旧活動の一環をお手伝いしています