地震で得たもの

       木村 修司 四十歳 小学校教諭 西宮市


 一九九五年一月十七日午前五時四十六分に、それは起こった。生まれて初めて経験するすさまじい揺れの中で、できた事といえば、ただ長女の上におおいかぶさり、と同時に妻の名を呼ぶことだけだった。
 わずか数十秒のでき事なのに、まるで夢の中に漂っているような非現実感を持ちながら、しばらくはボー然としたままで、全く動けなかった。やがて妻の叫び声で我にかえり、家の中を見てまわる。全ての立体物がまぜこちゃに倒れ、いたる所にガラスの破片があり、素足では通れない状態だった。
 そしてただちに実家へと向かう。うねりと亀裂の走った道や倒壊家屋のために、何度も道を変更しながら、やっとたどりつき、無事を確認しあう。
 間もなく青果卸売市場から、父と弟がとんでやってきた。市場は全滅だと興奮してしゃべる父も、母の無事な姿を見て、次第に落ち着きを取り戻してきた。
 午前七時すぎ、勤務先の小学校に向かう。普段の三倍の時間がかかる。到着してみると、ほこりと血と怒声と涙声の避難者でごったがえしていた。しかしその一方で、無表情に無言という感じの人達もかなりいた。
 自分の家と同じようにめちゃくちゃになっていた職員室を片付けながら、午前九時頃校区内へ出かける。
 空襲という体験はないのに、おそらく空襲されたらこんな感じになるのだろうと直感させる程の町の様子であった。
 あちこちに人が集まり、ひきつった表情で話していた。不思議な事に今まで見た事もない人達が私にも気軽に話しかけてきた。
 動きのある人だかりは、生き埋めになった人達の救出作業だと、その人達が教えてくれた。
 その作業に加わり、生まれて初めて遺体を触る。その作業を指示していた家族の人達も、すでに諦めきった表情で淡々としているのには、驚かされた。
 掘り出す道具がないために、みんな手先をけがをしていた。
 やがて夜になると、遺体が次々と学校へ運ばれてきた。遺体というものに慣れてきて、毛布をひろげ、お棺に移す作業も要領がわかってきたが、焼死体だけは、気絶しそうになる程のつらい作業だった。まだ肉片が骨についており、そのすさまじいにおいと闘いながら、バラバラになっている骨を、人の形に整えながらお棺に移す作業は、男の自分さえ、何度もあげそうになってしまった。その時初めて、自衛隊の人達の大変さがわかったような気がする。
 結局、校区内では二十名あまりが亡くなられた。そのうち児童は二名。他は全て老人であった。みんな一階に寝ていたために、二階部分の落下による圧死である。そこに火災の発生である。
 午前三時起床。小学校到着は午前四時頃。すぐにボンベで湯をわかす。午前五時すぎ頃になると千名近い避難者のうち数十人は起きてきて洗面を始める。そのためのお湯である。
 午前九時まで朝食の手伝い。その後、家庭訪問と校区巡視に出かける。教え子達の把握と危険箇所を調べ、地図に書きこむ作業。更にいろんな人達の話し相手になり、情報を提供する仕事も加わる。話がなぜか弾む。
 帰校して、今度は配給物資を軽トラックにのせて、地域へ配ってゆく。避難所である小学校まで来られない人達にチリ紙交換と同じ要領で配っていくのだが、作業はなかなかはかどらない。
 夕食の準備、給水、夜間警備、外部と避難者との取りつぎ、仮入学児童の把握と続き、午後十一時頃帰宅する。この生活が三週間続いた。
 三週間後、小学校が再開された。施設の半分が壊れたため、二部授業。午前と午後に分けて、低学年、高学年の授業を行う。約半分の児童しかいない再開である。
 全壊した家の子、家族を亡くした子、地震後の余震のたびにおびえる子など、心のケアを最優先とする授業でもある。
 「地震で得たこと、失ったこと」というテーマで社会科の授業をしたところ、「人の親切のありがたさ」「水のありがたさ」などと、得たことの方が、失ったことがらよりも少し多いという結果になった。
 天災でありながら、同時に天恵でもあったという結果である。
 二十一世紀が楽しみである。『患難知交』の世代である。