留守番

     岡本 月見 三十五歳 主婦 加古川市


 私の家族は、主人と私と、小学校四年生の女の子、二年生の男の子の四人です。西明石に住み、私と主人は新聞配達をしています。
 一月十七日の朝は雪がちらつき、とても寒い日でした。「寒いなあ」と主人と話しながら、四時四十分ごろに家を出て新聞配達に出かけました。いつものように順番に配達をし、私が車に乗って向い側の配達場所へ移動。車から降りた瞬間、一瞬、何が起こったのか分かりませんでした。
 「エッ」と思った時、空がオレンジ色に光って、電気が一斉に消えたのです。道は波うち、その場に立っていられませんでした。けれど、私は早く主人を呼んで家に帰らなければいけません。子供がタンスの下敷きになっていたらと思うと、気持ちばかりあせってしまいます。
 真っ暗な中、主人を大声で呼び、急いで家に帰りました。家の近くまでくるとトラックが立ち往生していました。電話線か電線がたれさがって、家に入れないのです。
 ここでも気があせるばかりです。とそこへ、隣の家の人と子供が外へ出てきてたので、「ああ、生きていた」とほっとしました。
 家を見に行くと、外の物置はたおれ、外壁はおちて亀裂だらけ。ベランダもおちそうで水道管もやぶれ、もう悲惨な状態でした。家の中もテレビはとび、人形ケースもおちて割れ、食器もたくさん割れていました。真っ暗な中を、二人で二階から降り、よく外へ出られたなと思いました。姉の香織が外へ出て、
 「お母さんもお父さんもいないんですが、まだゆれているみたいなので外へ出た方がいいですか」と隣の人に尋ね、弟の和也をつれて外へ出たということです。私は親バカと言われてもいい、子供たちを香織をほめてやりました。
 でも、ガスもれは次の日の夜まで続きました。私と主人は余震がきても、次の日から新聞配達をしなければなりません。やむなく私の両親の家へ子供たちだけあずけました。
 そして、私と主人は望海コミュニティセンターへ避難しました。親と子のバラバラの生活がはじまりました。
 子供が一月の終りごろから風邪をひき病院通いになりました。二月のはじめごろに、香織が、
 「目が見えない、ぼやけている」と言いだしました。
 先生が「何かありましたか」とたずねるので、地震の時に親がいなくて子供だけだったこと、自分が姉だからと弟を必死でつれだしたりしたことを話すと、先生は「目の見えないのは一時的なもので、ショックからきている」と言われ、私たちは一日も早く家族がいっしょに暮らさなければと家をさがしました。そして主人の会社の社長さんの好意で社宅として一戸建ての家に入れていただきました。香織の目も見えるようになり、今は加古川で家族がいっしょに暮らしています。
 明石や西明石も、神戸や灘に比べると被害は少ないけれど、多くの人が被害にあい、今も避難所で暮らす人がいます。私も体育館で寝ました。床は硬く毛布だけでは寒くて、一日も早く仮設住宅をと思います。
 私が生まれ育った明石、そして高校を出てすぐに働いた長田が一日でも早くもと通りになることを願っています。