蛍光灯

      小林 由佳 十九歳 家事手伝い 神戸市兵庫区


 突然の揺れに何が起こったのか分からず、ただ眠い意識の中でふとんの中にくるまっていた。目をつむりながら壊れる蛍光灯の音、何か倒れる音、妹の叫び声を聞いていた。
 その中で母の呼ぶ声。私にとってそれは一瞬の安心感だった。すぐにふとんから起き上がり、パジャマの上に服を着ようとした時、妹が
「出られへん」
 と叫んでいた。妹の部屋にあったピアノが横に動き、出口をふさいでいた。
 私の頭の中はまだ夢なのか現実なのかパニックの状態で、妹がいつどのように出たのか分からなかった。母が
 「すぐに下に降りよ」
 と言うので、近所の家の戸を叩き一緒に下に降りた。
 下には、何人かの人が既に出ていた。一人暮らしのおばあさんは
 「怖かった」
 と、少し涙ぐみながらそればかりを言っていた。まだ、外は真っ暗で冷たい風が吹いていた。遠くがぼんやりと赤く見えた、しんと静まっている街が妙に怖かった。
 空が明るくなり街中を照らし出した。車の中でラジオを聞いていた。そのラジオからは地震の規模、大きさ、被害状況など様々な情報が流れてきた。既に死者が何百人いると流れた時は信じられなかった。ラジオは安否情報が流れていて
 「何々さん無事なら連絡下さい」
 そればかりが聞こえていた。
 私は一人、歩いて家に戻ることにした。その帰り道、見たことのない光景が私を襲ってきた。道はデコボコになりマンションやビルには亀裂が入り、全壊や半壊してしまった家々。何よりも驚いたのが、山陽電車の大開駅真上にある道路が、二台の車ごと大きく陥没してしまっている事だった。その時、初めて何があったのか分かった気がした。
 家につくと、ふとんなどを持ち出し、住宅内の集会所に避難した。大勢の人が不安そうに椅子に座り、ただじっとしていた。その間も私達を何度も余震が襲い、その度にラジオで震度を聞いてやり場のない気持ちを抑えていた。
 しばらくして外に出ていた妹が突然
 「Aちゃんが死んでんて」
 と帰ってきたときは誰のことか分からず、
 「Aちゃんて誰?」
 と聞き返してしまった。すると母が
 「Kちゃんの妹やん。今そこで会って、泣いとったからどうしたんかと思ったら、すぐ病院行ったらしいけどおそかってんて」
 と言った。
 私はその時どのような顔をしていただろうか、ラジオの中から「死者が何百人になりました」と聞こえる度に増える数、自分の家族や親類が無事だから友達や近所の人も無事だろうと思っていたのに、すごくショックで落ち込んでしまった。
 夕方になり、集会所も危険だということで横にある会館の地下に避難することになった。地下と言ってもガレージで下はコンクリート、まだ停電のため電気はつかず真っ暗で、風や冷気が地下にこもり、人間の住む所ではなかった。
 でも、贅沢は言ってられない、居る場所があるだけで幸せだと思うことにした。みんな、なんとか寒さを凌げるように、ふとんの下に段ボールを敷いたり、毛布を何枚も使ったりした。しかし、地下はひんやりとして私達に冷たかった。
 水も電気もガスも、一瞬にして奪われた私たちにとって温かいご飯もお風呂もトイレも普通だったことが普通でなくなってしまった。トイレは、その辺の人気のない所でしていた。仮設トイレが出来たのは、一週間以上過ぎてからだった。
 何が何処にあるのか、誰が何処にいるのか分からないくらい、真っ暗なガレージでの生活も四日程たった頃、この建物に自家発電があるというのが分かり、蛍光灯が一つ地下を照らすことになった。
 たった一つの明かりなのに、周りの人達の顔が見えることによって、会話や笑顔が戻り人間らしい生活に一歩近づいた。
 地震から約二週間経って、住宅の点検が終わり、家に帰ってもよいと言われた。二月に入り、久しぶりに自分の部屋で寝た。しかし、仮眠どころか、あの日の恐怖が体を襲い、部屋の電気を消すことすら怖かった。
 二月も中旬に入った頃、いろいろな所から炊き出し隊の方が、温かいものを作りに来てくれて、本当においしい食事だった。
 大きな傷跡を残していった大地震。だけど今まで分からなかった助け合う事の大切さを知る事が出来た。沢山の衣類やお弁当を提供して下さった人やボランティアの方々、亡くなった人々のためにも今回のことを忘れずにがんばっていこうと思う。