避難所の祖母

      朝見 裕里 二十七歳 会社員 神戸市兵庫区


 その日、私は自宅の自分のベッドに寝ていた。一度眠ってしまえば目覚ましが鳴るまで起きない私が、あの日だけは違っていた。誰かがベッドを思いっきり揺すっているような衝撃で目が覚めた。いつもつけっぱなしにしているテレビが消え、床にはカセットテープが転がり本棚が倒れている。何がおこったのかすぐにはわからなかった。
 揺れがおさまってから台所に行った。懐中電灯を捜してつけたらトースターや炊飯器がそこらじゅうにちらばっていて、足のふみ場もない状態。父がラジオのスイッチを入れた。震度6、震源地は淡路島、と言っている。とてつもなくすごいことがおこったんだと感じた。と同時に恐怖が襲ってきた。しかし、この時はまだ神戸の街があんな風になっているとは思ってもみなかった。
 外もだいぶ明るくなった頃、やっと電気がついた。テレビをつけた途端私は自分の目を疑った。これがあの神戸なのか、どうしてこんな風になってしまったのか、衝撃が頭の中をかけ巡っていた。すぐに灘区に住んでいる祖母と中央区に住んでいる親戚の事が心配になって、気がついたら電話番号を押していた。全くつながらない。
 そこで、いつもバイクに乗っている私が行くことになった。三日後の一月二十日、兵庫区にある会社に寄ってから、まずは親戚の家へ。東へ進むにつれ、どんどんひどくなっていく。道路は陥没し、信号機は落ち、長田は一面焼け野原だ。とてもいやなにおいだ。いつもとは全く違った街になっていた。ヘルメットの中の顔に自然と涙が流れていた。まるで地獄絵図を見ているようだった。
 やっとの思いで親戚の家へたどりついた。避難しているものの、みんな無事だ。よかった。次は祖母。この時点では、助け出されて中学校にいると聞いていた。でもやっぱり顔を見るまで安心できない。一人で行くのは恐いので、いとこについて行ってもらうことにした。
 今まで通ってきた道もそうだったが、山手幹線に出ると大勢の人が足速に歩き、バイクや自転車の数は相当なものだ。まるで中国の大都会を見ているようだった。悪いと思ったが、歩道を走り、一方通行を逆走して何とか避難先の鷹匠中学校についた。
 校内に入ると線香のにおいが鼻をついた。体育館で、すぐに祖母はみつかった。一面に毛布がしきつめられ、床が見えるのは、わずか五、六十センチの通路だけ。足が悪い祖母は入り口近くに「ちょこん」と座っていた。
 家からもってきたはんてん、カイロ、水、私が作ったおにぎりなどを渡した。でも何も食べたくないという。「何で?」と聞くと、食べたり飲んだりしたらトイレに行きたくなる。一人ではトイレに行けないので、周りの人に迷惑をかけるからという。祖母はおじさん夫妻と住んでいたが、おばさんが看護婦のため、お昼の間は一人だ。やっぱり身内以外の人に手伝ってもらうのは気がひけるのだろう。
 トイレにはきのうから行っていないそうだ。もう夜の七時をまわっている。驚いた私は、トイレに連れて行ってあげた。トイレの隣は遺体安置所になっている。毛布にくるまれた遺体を目のあたりにした時、私はこの大震災の恐ろしさをあらためて感じた。
 震災の日から、あたたかいものを口にしていない祖母は、伯母(娘)が作ったホットコーヒーを飲みながら
 「ああおいしい、みち子の作ったコーヒーが一番おいしいんや」
 といった。体はガタガタ震えていた。
 それから一週間後の二十六日、祖母は病院に運ばれた。かなり衰弱していたみたいだった。私が行った時は、まだ元気で、ケガもしていないと言っていたのに、肋骨が折れて、心臓がはれて大きくなっていたそうだ。
 茨城県水戸市の救急車で運ばれたらしい。すごく感動してしまった。遠い所からわざわざきてもらってありがたい。
 「自衛隊のくるのが遅い! もっと早く来てくれれば、大勢の人たちが助かっていたかもしれないのに」
 と言われているが、一番辛くてくやしいのは自衛隊の人たちだったと私は思う。一分一秒でも早く行って助けてあげたかったはずだ。
 ただ国の決まり事があるために、すぐに行けなかったのだと思う。そういう事もわかってあげてほしい。亡くなった人が五千人を超えているが、助けてもらった人も大勢いるはずだ。助けてもらった人は感謝していると思う。
 すごく腹がたったことがある。祖母がトイレに行ってる間に、毛布を盗まれた。こんなことってありますか。体の悪いお年寄りの毛布を盗むなんて許せません。絶対に。あれから祖母には会っていませんが、元気にしているのか気になります。また行ってあげたいと思う。
 一月十七日の阪神大震災のことは決して忘れることはないだろう。いや忘れてはならない。