燃える菅原市場

     大堀 美重子 四十九歳 漬物製造販売業 神戸市須磨区


 まだ正月気分の抜けない一月十七日早朝、突然の激しい音と揺れで床の上に座る。「何?」。心の中で叫ぶが声が出ない。体は大きく激しく揺さぶられるがままに自分ではどうする事もできない。やっと止まった。
 しかし、一呼吸するかしない内にまた激震が来た。いつまで続くのだろうか。長い時間を感じた。そばに居る主人が
 「早く電気をつけろ」
 と大声を出す。電気のひもを手さぐりで探すがない。
 「電気ないで!」
 上ずった声で返す。まっ暗やみの中の出来事。何事が起こったのか理解できない。
 すると、
 「早く出なさい。みんな外に出なさい」
 と、隣の奥さんのカン高い声が耳に入る。もう外に出ているのだろうか。
 三階に寝ていた長男の助けを求める声もパニック状態だ。手探りで階段の安全を確かめ三人合流する。すぐ裏の市場の店の二階の祖母とその上に寝てる次男が心配だ。大声で叫ぶ。次男の声が聞こえた。
 「おばあちゃんを頼むで。明るくなるまでじっとしときよ」
 市場の家は一階から三階までそのままの状態で建っていたので安心する。
 隣の豆屋のおじいちゃんが気になる。廊下にあった掃除機のパイプで窓をたたく。応答はない。今まで市場と裏の家との間には半間しかない路地が続いていた。窓から首を出して見ると市場続きの真裏の我が家が一軒ない。つぶれたのだろうか。東の空がいやに赤い。火事だ。
 夜が明けるのがまどろっこしい。また少し揺れる。そのたびに、あわててフトンをかぶる。私の体の一部の入れ歯を探そうとする。暗いのにウロウロするなと主人と長男に叱られる。時折、主人がライターの火をつけてみる。部屋の中は障子や額が散乱してガラスだらけだ。
 枕元にある仕事着を引き寄せ身に着ける。脱出準備だ。二階から外を見る。息を呑む。地獄だ。市場の真裏の家は向かいの玄関まで移動している。通路はない。瓦礫で山盛りだ。家と家はぶつかり合い通るすき間さえない。もう近所の人々は脱出した後らしく、いやに静かだ。主人が瓦礫につまずいて何度も転び、後で気がつくと大きな靴に血が流れていた。
 バス道に出て祖母と次男を探す。会う人、会う人に尋ね歩く。市場の中を走る。すでに消火活動をしている人がいた。シャッターをこじ開け叫ぶ。返事はない。商店街に向かう。やっと二人を見つけ胸をなで下ろす。主人は市場の消火活動に加わった。
 我々四人は近くの福祉会館に避難する。道には人々が右往左往し、あふれ返っている。パジャマ姿の人。靴もはいていない人。毛布を巻いている人。顔見知りの人々と生命のあることを喜び合い、そして皆無言で座り込む。会館の窓も障子も真っ赤に染まる。御蔵小学校へ避難するようにと誘導される。
 ふり返ると菅原市場にはすでに火の手が上がっていた。私の家の辺りだろうか。何一つ持って出られなかった。じっと見つめていた。空は赤黒い炎と煙で真っ黒になっている。雪のような灰が狂ったように舞い落ちて来る。消防車と救急車、そしてヘリコプターの音だけが聞こえる。
 この日は一晩中空が赤々と燃え続けた。余震が何度となくおそい揺れた。そのたびに、人々の声が低く大きくなる。眠れぬ夜だ。つらい、寒い、夜だった。
 次の日もその次の日も焼け跡から白い煙が立ち昇っていた。御菅地区は無残にも黒く不気味な焼け野ケ原と化けてしまった。
 翌日は遠くの親戚や近くの友人達が食料を持って来てくれた。昼からは区役所で毛布が支給されると聞き、長い長い行列の後尾を探して並び、「二ノ宮金次郎姿」で持ち帰った。
 十九日から避難所に少しずつ食料が入って来た。何でも分け合って食べた。入れ歯のない祖母も私も硬いおにぎりは丸飲み。五日後、ボランティアの方々による炊き出しが始まった。温かい食べ物は本当に嬉しかった。七日後たくさんのトイレが設置された。
 八日後、自衛隊のお風呂が出来た。広島県から来てくれたらしく、名前もなかなか粋な「もみじ湯」。久々の湯につかり、ありがたさを実感。これで世界一の大家族「御蔵小学校一家」にやっと家らしい形が整った。
 長男は被災三日後に親友の家族が探しに来てくれ、そのままずっとお世話になっている。  地震の直後、次男は下の店に降りられなかったので三階の物干しの柵を乗り越え、屋根をつたって商店街のアーケードを走り、垂直のはしごを下りて祖母の土台になり、肩を貸しながら火の粉が飛び散る中を一緒に逃げたそうだ。今でも商店街の入口に焼け焦げたはしごが残っている。次男には表彰状を贈りたい。
 五十日近く御蔵小学校でお世話になっていたが、ご好意で知人宅に身を寄せさせていただく事になった。菅原市場も震災後すぐ本部を設け仲間一丸となって頑張っている。