小さな喜び

        岡林 智子 二十七歳 神戸市垂水区


 「智子、大丈夫か」
 母の叫び声が聞こえる。激しい揺れの中、身動きもとれず布団の中にいた私は慌てて母のもとへ走った。ガタガタと音を立て再び地震がくる。心臓が痛くなるほど怖い。生まれて初めて味わった地震の恐怖だった。その前日、前震と思われる地震が夕方五時頃に起きていたが、関西には大きな地震はないといわれており気にもとめていなかった。そして、その翌日午前五時四十六分、ドーンと大きな音のあと外からはゴォーと地鳴りし、激しい揺れを感じる。まるで私をザルでこすように、下から突き上げ横に揺さぶる。
 「キャー地震や」と悲鳴を上げた。上からいろんな物が落ちてくる。「助けて、助けて」。心の中で繰り返した。揺れがおさまり母のもとへ駆け寄ると、父も寝室から出てきた。家族は全員無事であったが、ほっとする間もなく、再び余震がきた。余震は私達を恐怖へと突き放つ。「家が崩れるんちゃうか、早よ逃げな」。暗闇と寒さの中、一体どうなっているのかわけがわからなかった。電話はつながらない、ラジオも懐中電灯もなく一層不安になっていく。
 父が出口確保の為、玄関の戸を開ける。戸が開きほっとした。それからどうしたらいいのかわからない。床には壊れた食器が散乱し、家具は倒れ歩ける状態ではない。外から何か放送している。
 のぞいてみると誰か車のラジオのボリュームを目いっぱい上げて流してくれていた。そうだ車へいこう、ラジオもヒーターもある、そう思い、ライターの灯りを頼りに貴重品を取り毛布を抱え外へ出た。玄関の近くで三十センチ、道が落ちている。地割れも多いが辺りの住宅で倒壊した様子はなかった。
 ぞくぞくと人が集まってくる。近くに住む姉夫婦の姿はない。すぐに駆けつけると姉夫婦も子供も無事だった。
 「学校に避難しよう、ここにおったら危ない」
 みんなで近くの小学校へ向かうと、校庭に何台もの車が入っていた。指揮をとる者もおらず体育館もまだ閉鎖されたままだった。何も頼れるものはなかった。
 未だ夜は明けず空はどんよりとしたグレーだった。陽が昇っても晴れ間は見えない。空からは灰が降り捧ぐ。火事かと周りを見渡すが火の手は見えない。東の上空がオレンジ色に染まっている。
 この時私達は長田であのような火災が起きていたことは誰も知らなかった。二、三時間たった頃だろうか余震に怯えながら自宅へ戻った。しばらくしてパッと灯りがついた。
 慌ててTVをつけると信じられない惨状が広がっていた。
 「阪神高速落ちとるでえ、三宮全滅や、長田で火事や」
 とみんな驚いた。電話はつながらず、親戚、友人の安否を確認するすべもない。
 「危ないから、みんな固まっておらなあかん」
 仕事へ行こうとする父を止めた。父は渋ったが母と私とで引き止めた。普段はゴロゴロと何もしない父だがやはり男、いるだけで安心できた。
 日中は十五分間隔で余震が続いていたが、多くの人間が集まっており気が紛れた。地震当日の夜、外が暗く人の気配が少ないと、とたんに不安が増してきた。窓を開けると外はガスの臭いに包まれていた。近所の人と協力しガスメーターのコックを締めてまわる。ガス会社にガス漏れの連絡をかけてもつながらず一一〇番をまわした。今、ガスの停止作業中との返答に住民みんな安心した。
 神経が高ぶり体は疲れているのに眠気はなく、恐怖の一夜を過ごした。こんな夜を何日過ごしただろうか。ぐっすり休みたい、何も考えず眠りたい、睡眠欲を初めて感じた。手も洗いたい。
 しかし、ごはんが食べられてありがたい、家があってありがたい、家族が無事でありがたい、地震後から日常のほんの些細なことがありがたく思える。
 家を失い避難所で暮らす人が言っていた。
 「今までぜいたくしすぎやったんや。これは原点に戻りなさいと神様が言うとんちゃうかな」
 その通りだ、ごはん食べられて寝られたら、他に何もいらんよ。この震災で人生観が変わったと言う。私たちはお茶碗一杯の御飯を、本当にありがたく感謝していただくようになった。
 人に優しくすること、思いやりの気持が育った。人と人とのつながりを大切にするようになった。みんなで力を合わせて頑張っている。地震直後は悲しみの涙ばかり流していたけれど、今は復興に向け頑張っている姿を見て感動の涙に変わった。新しい神戸を見て、がんばりましょう、負けへんで、春の足音が聞こえています。
 私にも春が訪れました。二月四日、地震のため挙式は出来なくなったけれど、手作りの結婚式で祝い、入籍しました。家族、友人に支えられた温かい幸せでした。