カラス

        加藤 洋子 五十二歳 主婦 神戸市東灘区


 私のマンションは東灘区でももっとも被害の大きかった摂津本山駅より二号線を渡ったやや南の所にある。阪急岡本駅よりやや北に七十四歳の義母、住吉川添いの山手に八十歳の母がそれぞれ一人で住んでいる。
 地震の日の二日前に母のマンションに行っていた。ベランダから遙か彼方に六甲アイランドが美しく輝いている。目の前には六甲山の裾野が広がる母のお気にいりのマンションである。海から山の方へ目を移した時、思わず目を凝らした。黒い固まりが木を真っ黒にしている。何だろう? それは烏の大群であった。
 「このへんいつもカラスが多いの?」
 母に聞いた。
 「雀は多いけど、カラスはあまり見ないけどね。カラスが来ると不吉なことが起きるといって昔の人はカラスを嫌うのよ」
 何気なく聞いた母の言葉が、四十時間足らず後に大惨事が起きる予言になろうとは予想だにすることは出来なかった。
 自然の力は人間を嘲笑っているかのようにこれでもか、これでもかと激しく体を揺すってくる。家具の倒れる音、ガラスの割れる凄まじい音。何これ、どうしたの? 息子が言っていたノストラダムスの予言が的中したのだろうか。隕石か何かが地球にぶつかって人間は滅亡するんだ。東京に赴任中の主人、これから社会人になる東京の大学に通う息子。他の部屋で寝ている娘、老いた母達、みんな別々に死んでいくのだ。
 ベッドから振り落とされないように必死でしがみつきながらそんな事を考えていた。激しい音と揺れがおさまり不気味な静けさに我に返った。暗闇の中で手を動かすと、家具が目の前に倒れかかっている。這い出したものの動転しているのか方角が分からない。娘は大丈夫だろうか? 部屋の外へ出なければと気ばかり焦って足がすくむ。「お母さん! お母さん!」。ドンドンと戸を叩く音に安堵のあまりその場にしゃがみ込んでしまった。ドアを塞いだ家具や落下物をやっと取りのぞき部屋から出ると足の踏み場もない。
 ガスの匂いに爆発するかもしれないからともかく外に出ようと思ってパジャマの上から手当たり次第取れたものを引っかけて階段を降りた。一階まで来たときあまりのすごさに息を飲んだ。渡り廊下が四階部分から落ちて屋根がぶら下がっている。とてつもない天変地異が起きたことを思い知らされた。
 マンションの住人も毛布をかぶってぞろぞろ外に出て来た。恐ろしさと寒さに体がガタガタ震えた。誰も為すすべもなく無言である。空が白みかけるまで中庭に立っていた。気を取り直して母達の安否をと思って部屋に戻ったが電話は不通であった。財布と鍵をやっと探し出し公衆電話に並んだ。地面が割れている。
 七時半すぎ、東京の主人に無事を報せる事が出来た。母二人の安否がつかめず足で確かめるべく娘と二人で2号線へ急いだ。いつもは車で出られる幅があった道も印刷屋と新聞屋が倒れて入口を塞いでいる。もう一方の住宅公園の方は立体駐車してあった車が逆様にぶら下ったりずり落ちそうになっている。体を屈めてやっと2号線に出た。
 目にした光景はまさに地獄であった。見慣れた家々がまるでふみつぶされたようになり、ビルも病院も傾いている。今にも倒れてきそうな家の下をビクビクしながら急いだ。道を塞いでいる電柱をくぐり抜け、やっとJR摂津本山駅近くまで出た。
 義弟のマンションを見て愕然とした。何事もなかったかのように建ってはいるものの二階が地面に落ちている。胸がしめつけられる。足早に山手幹線に出て阪急の線路を渡ると見慣れたいつもの景色が広がっていた。元気な義母に安堵し、山手の母の家へ向かった。一時間くらい歩いてやっとたどり着いた。部屋の真ん中に意気消沈してちょこんと座っている母を目にしたとき、疲れがどっと出たような気がした。そのままにしてきたマンションへ戻るべく外へ出た。
 ふくいくとした香りに顔を上げると、ろう梅の花が微笑んでいた。深呼吸をして初めて生かされた実感を味わった。明るい所で見る我が家は惨憺たるあり様であった。家具と家具がぶつかりあって、壁に穴をあけている。私のベッドが一メートル西へ動きベッドの枠がドレッサーの直撃を塞いでくれた。ドレッサーの下には私の身代わりのペシャンコになったピアノの椅子が無残であった。
 直後に八時間もかけて物資を届けてくれた大阪の従兄弟、電話が不通で安否を確かめるべく渋滞のなかマンションまで来てくれた友、無事を知って涙してくれた親友、水を運ぶとき車を止めて手伝ってくれた青年。どんなものより美しい人の心。この体験は私の人生観を大きく変えてくれた。
 2号線沿いのつぶれた家の前を通るとき息がつまりそうになりそっと手を合わせる。家の前に鉢を並べて美しい花を咲かせ水やりをしていたおじいさん、おばあさんへ伝えてほしい。「今年は見事なつつじを見ることが出来ませんが本山の桜公園のつぼみも膨らんでいます。きっと美しい花が咲いてくれることでしょう。安らかにお眠り下さい」と。