活断層の上に生きる

      天知 吾郎 三十五歳 高校教師 西宮市


 僕は自転車を止め、クリーニング屋のガラス戸に張られた紙を、声を出して読んだ。後ろに乗せた小学校二年生の娘に聞こえるように。
 「この度の地震で母屋が倒壊し、母と次男を失いました。これを持ちまして当店も閉店させて頂きます。永らくの御愛顧本当にありがとうございました。尚、お預かり致しておりました品物は責任を持ってお返しさせて頂きます。二月○日に片付けに参りますので、声をおかけください」
 年末に、ふとしたことで汚してしまったズボンが最後の預けものになった。取りにいった家内は、
 「こんな時に本当に申し訳ありません。地震で駄目になっていたなら、諦めます。でも、もし残っていれば返して頂けませんか」
 と言った。店の奥さんは、いつもはしていないサングラスをしていた。
 「預からせて頂いています。有難うございました」
 と気丈に対応された。
 亡くなったお子さんは娘と同じ小学校の一年生。離れになっているプレハブのクリーニング店は皮肉にも無傷、田舎風の立派な木造二階建の母屋は一階部分が完全に崩れ落ちた。
 「しっかり目に焼き付けておきなさい」
 と、僕は後ろを振り向いて言った。娘は黙って肯いた。僕は自転車のペダルを思いきり踏み込んだ。
 瓦礫の山に向かって、数人の若者が叫んでいた。今年成人式を迎えたばかりの若者の名前を大声で呼んでいた。甲子園口駅北のビルが倒れ、その中に一人の若者が埋まったままになっていた。辺りはもう薄暗く、寒さが身体の芯を凍らせる。しかし彼らは、呼びかけをやめようとしなかった。
 地震の日、人づてにそれを聞かされた僕は、何とかならないものかと現場に行った。しかしビル一つ分の瓦礫は、一軒家のそれとはわけが違った。質量とも、人間の手に負えるようなものではなかった。そして被災地のすべてがそうだったように、ここにもまた救出の部隊は、到着していなかった。
 彼は野球部の中心選手だった。地震の瞬間に飛び上がり、空中回転を三回ぐらいして、着地も成功。だしぬけにどこかからひょっこり現れるのではないか、という期待を抱かせるほどの運動神経の持ち主だった。
 高校二年のときのクラス担任が僕だった。大勢の人に愛された。一番友達を作るのが苦手な子と友達になれた。卒業間際の集会で、代表として同学年の生徒全員を前にスピーチをした。僕との思い出話を持ち出して、みんなを笑いの渦に巻き込んだ。
 遺体はそれから数日後、警視庁からの救援隊によって発見された。即死だった。きれいな顔のままだったという。
 親元を離れ、仕事場に近いおばあちゃんの家に寄宿していた。大好きだったおばあちゃんと一緒に天国に召されたのが、せめてもの救いかもしれない。Tシャツ姿で、少し斜めに構えた彼が、笑顔でガッツポーズをするお葬式の写真が、悲しかった。
 僕の親友の奥さんは、一月十七日が出産予定日だった。両親の無事を確認した後、まず電話を入れたのが彼の家だった。しかし他のところは何とか電話がつながるのに、彼の家だけがつながらない。呼び出し音だけが受話器の奥で虚しく繰り返した。
 悪い事態ばかりが、頭をよぎる。もしも陣痛の最中だったら。もし何か重たい物でも落ちてきていたら。家が倒壊するようなことになっていれば。動きの鈍い身重の体のことを考えると、気が気でなかった。もし無事なら、向こうから電話をしてくれるくらいの関係は持っていた。僕は居ても立ってもいられなくなって、自転車を走らせた。
 結局、彼らも家も無事だった。もちろん、おなかの赤ん坊も。ただ電話は不通で、連絡がつけられなかったのだ。地震の影響で、おなかの子供に、もしものことがあってはいけないから、病院で診察を受け、帰ってきたところだった。
 彼らは、僕に連絡をしなかったことを詫びた。しかし地震当日の病院は、それどころではなかったことも説明してくれた。次々運び込まれる死者と重傷患者で、病室はおろか待合室までも埋め尽くされ、悲鳴と嗚咽はやむことがなかったという。
 新しい生命は、その数日後生まれた。
 病室を見舞ったとき、母親は眠っている子供をじっと見つめていた。自然の暴力との戦いを終えて生まれた絆を確かめるように、とても慈しみ深い目で。いつか両親は、その子に生まれたときのことと、命の意味について、教えるのだろう。生まれてきた子供は、「泰子」という名前を授かった。
 去る命と共に、生まれる命がある。あの数十秒の間に、体の中に刻み込まれた震度7の加速度と、近隣の家が崩れ落ちる凄じい音の記憶が、否応なしに「僕は生きているのではない。生かされているのだ」という思いを起こさせる。
 人間が必死になって積み上げてきた営みを嘲笑うかのように、自然の力は、僕たちの体や財産を揺り動かした。自然や宇宙の大きさに比べたら、僕たちの存在など塵同然である。そしていくつかの命の結末は、希望や夢が無限の可能性を示すものでないことを暗示する。
 しかし一方で、新生児のベッドの上で、小さな呼吸を繰り返す胸のわずかな動きは、僕の心を激しく揺さぶる。断水で、産湯にも入ることもままならなかった赤ん坊が、そんなこともつゆ知らず、安らかに眠る姿を見ていると、希望や夢という言葉は必ず生き残るという思いが湧く。
 未来はそれほど悲観的なものではないという気持ちが、胸の中にしっかりとあることに気付く。これから、生き残った僕たちは、生きる価値や意味をどこに見出していけばいいのだろう。
 実は、僕自身の家も大きな損害を受けた。せっかく二年前に新築したのに、家は傾き、内部の壊れ方も一通りではなかった。始めの何日かは随分と途方にくれた。しかしこうした地震にまつわるいろいろな経験をするなかで、この先の自分の家の修繕やたくさんのものを買い換えるために、必要なお金の計算ばかりしていることが、とてもつまらないことに思えてきた。大切なことが少しずつ見えはじめた。答えは案外近くにあるようだった。
 僕は、活断層の上に生きることにした。決して評論家になるまいと思った。僕はある避難所のボランティアに参加した。ただ以前とは違い、僕にはその営みが些細なことであることがわかる。
 しかし些細だからこそ人間的なのだ。一瞬の輝きのために生命を燃焼させることもできる。そして些細で、人間的な営みこそ、最も愛すべきものなのである。