支えられて、いま

       塚口 佳子  五十三歳 養護教諭 西宮市


 「保健の先生、かせつ当たったの?」
 昼休みの保健室、ガラリとあけた引き戸から、ボーイソプラノの声がとびこんできた。三年生のY君だ。腕白小僧で泣き虫の彼は、私の保健室の、常連客のひとりである。
 「うん、ありがとう。当たったんよ。心配してくれてたん?」。
 私の返事に、
 「わあ、よかったねえ、先生、もう家なき子じゃないね」
 窓ごしの春の日ざしに、幼い笑顔が弾ける。
 一月十七日、阪神大震災は、一瞬のうちに我が家を全壊させた。築三十年、木造二階建ての母屋は、郷里の母のために増築した庭の離れ家と、隣接するモータープールの二台の車を巻き添えにして倒壊した。私たち夫婦と息子、そして郷里の母の、それぞれの思いがこもるその家は、今、がれきの山の中で解体の日を待つ。
 あの朝、私は、いつものとおり、五時半に起床した。一階の居間でテレビを見ながら身支度し、朝食の用意をする、いつもの朝の目覚めである。その習わしが、文字どおり音を立てて崩れ去ったのは、次の瞬間であった。あれを地鳴りというのだろうか。おなかにひびくような数回の振動に続いて、大きな縦揺れがきた。
 「逃げねば」と私は思った。立ち上がったとたん、叩き付けるような横揺れとなった。居間を出て、玄関から外に出るまでの、わずかな距離すら歩行ができない大きな激しい揺れ。テーブル、椅子、電気ゴタツ、サイドボード、それらは、家のきしむ不気味な音とともに、その位置を変えつつあった。掛け時計が床に落ちて、ガラスがとび散った。私は、とっさに、階段下の壁ぎわに身を寄せた。寄せたというよりも、そこまで叩きつけられたというべきかもしれない。
 ミシミシときしむ音、物が落ちる音、ガラスがわれる音、それらがごっちゃにひびく居間で私は声を失っていた。頭を左手で覆い、右手で壁にはりつき、何度か右半身を壁に打ちつけ、二十秒の揺れを私はもっともっと長く感じていた。家具が倒れ、崩れてきた壁土を頭からかぶって、目もあけられない私の頭上近く、ドカンと大きな物が落ちて、ようやく揺れはおさまった。
 立とうとしたが、からだはびくとも動かなかった。崩れ落ちてきたものや、倒れてきたもののすきまに、頭から上だけを辛うじて出し、私は埋まっていた。その頭上に斜めに落ちていたのが、エアコンであったことを、助け出されてから私は知った。傍らの電気ゴタツとエアコンの間にできた小さな三角のすきまが、私の命を守ってくれたことも。
 電気が消え、まだ暗い居間で、次に私を襲ったのは、静かすぎるほどの静けさであった。物音と、揺れへの怯えとはまたちがう、孤独で恐ろしいまでの静けさのあのときを、私は決して忘れぬことだろう。
 だが、その期に及んでも、私は、まだ家が崩れ落ちているとは思わなかったような気がする。ただ、途方もない大きな地震が、我が家を襲ったのだと理解できたとたん、別室にいる夫や息子の身を思い、私の心はさわいだ。
 シーンとした音の無い世界の怖さは、夫や息子の声が全く聞こえないことの恐ろしさであることが、動転した私にもわかってきた。
 「マーちゃん、マーちゃん」
 顔にかぶった壁土をはらおうにも、手も動かせない中で、私は、息子の名前を呼び続けていた。崩れたがれきの間から、自力で脱出できた夫と息子の私を呼ぶ声が、やがて聞こえてきた。
 あの日からはや二カ月。幸いにも、私たち家族も郷里の母も無事で、仮設住宅当選というささやかなよろこびを得て、我が家にも、再生への日々が始まろうとしている。
 余震のたびに金縛りになったこと、私の全身が痣だらけになったこと、家族で励ましあったこと、多くの人々にお世話になったことを思う。無我夢中で生きてきたこの二カ月は、震災までの平和な日々を当たり前としてきた私にとって、人生観を変えるほどの重みをもって迫ってくる。
 「余震でうちがつぶれたら、一緒にみんなで死にましょうや」
 と、無事だったそのおうちに、私たち家族を泊めてくださったTさん一家とは、これから一生のおつきあいをさせていただくことだろう。ライフライン、活断層、液状化現象など、日頃無関心だった言葉も、「まさか」が現実となったなかで学んだ私たち。まだ学校や、公共施設には、数多くの避難者の方々がいる。
 「家というものは、単なる建物や雨露をしのぐ入れ物ではない。それは、日々の安定した暮らしの基礎であり、心の空間である」
 という記事に、私の心は揺れた。まして、家族や職場を失った人々の心には、今日も、見えない余震が、何度もおきているのではないだろうか。人生設計の変更を余儀なくされた不安は大きい。だが、私たちは、この震災を通して、人の心の温かさ、やさしさに、充分触れた。
 「自分をあわれむな。人を支えよ。そして自分が大勢に支えられていることを知れ」
 ある中学校の卒業式での、校長式辞の中身、それは私たち被災者への呼びかけでもある。