子供からの贈り物

     佐藤 真由美 三十九歳 主婦 大阪府豊中市


 「灰色の人生」という言葉がある。人生に色があるのだろうかと、学生時代に何気なく思ったことがあった。
 あの日、わたしたちは一瞬にして「無」になった。色も無色。真っ先に家族の名前を呼び無事を確認し、一体何が起こったのかと思ったのはその後だった。現実を理解するまでに目の前にだんだんと現われてくるすさまじい光景、しかし考える力さえ失われた気がした。
 一月十七日、妙に日はやさしく、辺りの風景を映し出し、けれどその静けさが不気味であり、たびたび襲ってくる余震にただ身を寄せ合って、なすすべもなく空を見上げた。
 情報が全くない。道に人々が無事を確認しながら青ざめて立ちつくしている。だれも何がどうなったのかを心の中で叫びながらも声にならずにいた。どこにどうしたらいいのだろう、行動すら考えつかない。頭の中が無であった。これが「夢」であったならと、後でどんなに思ったことだろう。
 余震が怖くてその夜、避難先の本山第二小学校の校庭で眠った。というより横になり、寒さに震えながら過ごした。集団での生活は、どれほど勇気づけられたことだろう。そして人は決して一人では生きていけないと確認したのもその日だった。家族の絆の強さが、本当にうれしかった。それぞれ自分達でできること、それに全力投球した。隣同士の人々もあの時は一つの家族になった。お互いに励まし合い協力して、時の流れに身を任せた。
 時間という戦いに慣れている日本人の私達、けれど時間が止まってしまっていた。校舎の時計が朝の五時四十六分を刻んでそのままだった。何も変わっていない。私達の一日は、本当に長かった。泣き叫んで子供を遠くから探しに来た肉親。友人の安否を確認に避難先をずっと回っている人。逃げる途中でバラバラになり必死で捜す人たち。夜になりサイレンの音が響き渡っていた。いつまでも……。
 一月十七日、その日は私の三十九回目の誕生日だった。必死に取出してきたと思われるリボンのかかった箱を息子が手渡してくれる。母と娘に焚火で暖をとってくれていた夫と息子が、
 「ハッピーバースデイ、ママ」
 と、心をこめて歌ってくれた。
 「すごい日になってしまったね。絶対に忘れることができないね」
 と子供達。
 「ありがとう」
 涙で声がつまって言葉にならない。皆で頭の上に広がる星を見上げながら、それでもまだ地面の下から突き上げてくる余震にたびたび起こされながら仮眠した。
 誰かがつぶやく。こんな日に限ってすごいきれいな満月なんだよな。そんな言葉が今でも耳に残っている。
 あれから二カ月、全壊と判断されたマンションから引っ越し、新しい土地での生活が始まっている。普通の生活がいかに大切ですばらしいことか。また、生活ラインの重要さも身にしみて、道からあふれていた水を息子と汲んだことも思い出になりつつある。娘は卒業式を前に「絶対今の学校で卒業する」と約一時間半をかけて通学している。
 小学校生活の最後がこんな形でありながら、彼女の笑顔から充実した毎日であることがうかがえる。生命の尊さも学んだ。天国に召された四人の生徒たちの合同慰霊祭の日、空は小雪が降り、ご両親のお気持ちを察すると胸がつまってどうしようもなかった。あの時、生と死は紙一重で、だれにもその可能性があったから。
 ちょうど地震から一カ月後くらいだったけれど、まだ色も戻ってはいなかった。街の復興が全然進んでいないことに驚き、悲しみが増したのもその頃であった。花屋の店先にスイートピーがあった。かわいい花びらに透き通ったピンクが本当に心を和らげてくれた。手に取ってみるとかすかに甘い香りがした。
 ああ、花に色があり、香りがある。「生きている」。心に少し春が近づいて来た。こんな小さな発見に心がときめいたのです。「毎日をありがとう」。あれから、いつも口ずさんでいる自分。生命があっただけでも幸せだと痛感した日々。そして曜日も日時も消えていた何週間。だれもが経験した大震災。けれど私達は負けていません。
 人々のやさしさ、温かさ、助け合うことの大切さ、そして相手の気持ちになって考えること、様々なことを学んだ機会でもありました。
 決して戻ることのない震災前の景色。けれど人々の心は一歩一歩、前進しています。決して忘れることはできないけれど、今、私達は前を見て生きているのです。もう一度、普通の幸せを求めて頑張り始めているのです。だから、もしほんの少し心の余裕があったら力を貸してください。心の手をさしのべてみて下さい。愛の形は様々で、ただ決して物だけでなく、真心のこもったものであってほしいと、ボランティアの仕事を通じて感じたこの頃のわたしの心境です。なくなられた方々どうぞ安らかに。