さまざまな終止符

        大西 和代 四十一歳 主婦  神戸市西区


 あの朝、私はもう起きなくてはと思いつつ、もう少し、あと一分と、部屋が温かくなるのを布団の中で待っていました。すると、あっ地震かな? と思われる軽い揺れがあって、すぐ次の瞬間、ガタガタガタ、ガチャガチャガチャと色々な物が落ちたり、ぶつかったりする音と共に、家が思いっきり揺れたんです。ちょうど、怪獣映画に出てくるような巨大な生物が、町に現れて家を踏みつぶそうとしているような感じがしました。
 私は、
 「わっすごい地震だ。何とかしなくては」
 と思いつつも、あまりにひどい揺れのために起き上がる事も出来ず、
 「このままここで死ぬのかな」
 という思いが頭をよぎりました。気がつくと、主人が私の上に重なったような状態で馬乗りになり、私の頭を抱きこむようにかばってくれていました。そして動けないまま、となりの部屋で寝ていた息子の事を思いつつ、すぐ横でまだ眠っている六歳の娘の頭に落下物が直撃しないように、布団を頭の上まで引っぱり上げて揺れがおさまるのを待ちました。
 この間とても長く感じられましたが、ほんの数秒だと思います。揺れがおさまって、起き上がれるようになって、すぐ私は二つのストーブを消し、その足で一階に続く階段のドアを開けて出口を確保し、子供たちに大声で、
 「くつ下をはいて、服を着て、ジャンパーを着なさい」
 と言いながら、自分自身も同じ事をしました。
 「お父さん、こわい」
 と叫ぶ子供達や、
 「どうしょう、どうしょう」
 とパニック状態の私に、
 「大丈夫、大丈夫、落ち着きなさい」
 となだめる主人の顔は、真っ青で、血の気がありません。日頃、少々の事では動じず、ポーカーフェースであるはずの主人に、かつて見た事もない真剣な表情を見た時、私は事の重大さを知りました。
 その後、不安と恐怖に脅える私達に追い打ちをかけるように電気が止まり、真っ暗闇の中、たびたび襲ってくる余震がおさまるのをひたすら待ちました。そして数分後、主人は息子を、私は娘をつれて、一気に階段をかけ下りて、庭に止めてある車に乗りこみました。この時、とりあえず、家の下じきにならなくて済んだとホッとしました。
 まだ夜も明けない早朝、ルームライトに家族の無事な姿を確認しながら、カーラジオに聞き入っていました。この時程、夜が明けるのを待った事はありませんでした。
 「兵庫県を中心に大地震がありました」「死者が多くでたもようです」「三宮は全滅したもようです」と、ニュース速報が伝える被害の規模は、だんだん大きくなるばかりです。
 灘区にある実家や、姉達の無事を知ったあと、ニュースを聞くだけの一日が終わり、恐ろしくて家の中にも入れず、その夜は車の中で過ごしました。家の中が戦場と化したのを知ったのは次の日でした。
 それから一週間程してから、知人を探す為、灘区の避難所に行く途中、あちらこちらでつぶれている家や、倒れかけたビルを見た時は本当にこの世の物とも思えないむごたらしさでした。
 見るも無惨に壊れた家の前で、ここに住んでいた人でしょうか、七十から八十歳くらいの老夫婦が手を握り合って泣いておられました。慰める言葉もありませんが、なぜか通り過ごして行く気にもなれず、少しはなれた所で私ももらい泣きをしてしまいました。そして心の中で、何のお役にも立てなくてゴメンナサイと、つぶやいてその場を立ちさりました。
 また、幼稚園ぐらいの女の子と、十二歳ぐらいの兄妹が公園でじっと座っているので、
 「何しているの」
 と聞くと、
 「あのね、家がこわれてお母さんが死んでね、お父さんがけがをして病院に行ったから、おばあちゃんの所に行くねん」
 と目に一杯泪をためて言いました。たまたま持っていたチョコレートを出して、
 「食べる?」
 と聞くと、
 「うん。ありがとう」
 と言ったあと泣き出してしまいました。
 あの幼い兄妹、あれからどうしたでしょう。
 歴史に残るようなあの大地震のあと、家の下じきになって苦しみながら死んでいった人、
 「助けて、あついよ、あついよ」
 と叫びながら炎にのまれて黒こげになった子供、また何十年も生きてきた最後に、避難所で、寒さと飢えのために衰弱して、
 「お世話になりました。ありがとう」
 と言い残して息を引きとった老人。この形容し難い悲しみや怒りの気持ちは、いったいどこにぶつけたらいいのでしょう。
 このような理不尽な力によって、たった一度きりの人生に無理矢理、終止符を打たれてしまった多くの人々の無念の気持ちに、心より黙とうを捧げると共に、家をなくし、何よりも大切な家族や、恋人をなくし、幸か不幸か残された人々に訪れるであろう、つらくて険しい未来に、少しでも多くの幸せが来る事を願ってやみません。