遺体安置所の母

      長濱 恵子  二十九歳 主婦 神戸市灘区


 一月十七日の早朝。それまで経験したことのなかった、激しく長い地震の揺れで目覚めた。揺れがおさまったと同時に、灘消防署から何台もの消防車がサイレンを鳴らして出ていくのが聞こえた。
 「火事?」と思いながら起き上がってみると、部屋の中は真っ暗だったにもかかわらず、電化製品や陶器の置物が散乱しているのがわかった。急いで主人、そして主人の両親と共に表に出た。隣の家がつぶれているようだった。だが、その時にはまだ自宅から歩いて十分の距離にある灘南通の私の実家も同様の状態で、しかも私の母が命を落としていようとは考えもしていなかった。
 母を荼毘にふすまでの九日間、母の遺体はずっと王子スポーツセンターの遺体安置所に置かれていた。その間、二晩泊まったのを含め、何度となく安置所へ足を運んだ。その時に経験したこと、そして、見た光景はきっと一生忘れることができないと思う。
 十九日の昼過ぎ、私は始めて遺体安置所に足を踏み入れた。そこには次々と地震の犠牲者が毛布や布団にくるまれて運び込まれていた。そして、母の遺体が安置されていた剣道場には百人を超える犠牲者が安置されていた。私と姉が遺体安置所に着いたときには、母の着ていた服が検視をしやすいように鋏で切られ、そして毛布をかぶせられていた。
 母は、家の階段の辺りで大きな梁にはさまれて亡くなっていたため十七日には出すことができないでいた。しかし、翌日、知り合いの建設業者の方に頼んで母を出してもらった。その時に始めて、私は、顔や手足が青くなってしまった母の死んだ姿を目にした。
 先生が検視をしている間、他の人に母の姿を見せないように私と姉、そして叔父夫婦で毛布を持って母の遺体をとり囲んでいた。その間、私は検視の様子を呆然と見ているだけだった。しかし、母の背中に梁の跡があるのを見、また、母の死顔を見て、母があまり苦しむことなく一瞬で亡くなったんだろうということが理解でき、検視が終わったときに、ようやく『母の死』を受け入れることができたような気がしていた。
 母の検視が終わり、姉と叔父夫婦の四人で、母の体から土を落とした。そして私と姉とで母の顔にファンデーションを塗り、唇に口紅をさしてあげ、そして、爪にマニキュアをしてあげた。しかし、鬱血して青くなり、触れただけで皮膚がさけてしまいそうな母の顔にはなかなかファンデーションがのらず、青くなってしまった指にはマニキュアも全く映えなかったのはとても悲しかった。
 母の化粧が終わった頃、隣の列の犠牲者が検視のため服に鋏を入れられていた。私と同年代の夫婦だろうか。子供を二人亡くしたらしく、子供の着ていた服に鋏が入り、服をぬがされると号泣しはじめた。毛布を再びかぶせられた遺体の大きさは七歳ぐらいと三歳ぐらいで本当に小さかった。
 私自身、そういう子供がいても不思議ではない年齢だと思うと、その夫婦の姿がとても痛ましく思われた。同時に、もし、私自身に子供がいたら、あの地震の中で守ってやることができただろうか、と自問自答をしていた。
 検視のあった日の夜、やっとお棺が来た。お棺に母を納めるとき、母の体に触れるとすごく冷たかった。それまで遺体に触れたという経験がなかった私は、その冷たさにびっくりしてしまった。硬直してしまっている母に着物を着せ、お棺に入れるのには大変手間どった。また、母の重さにもびっくりしてしまった。よく、災害や事故で何人もの男の人が一つの遺体を運んでいる様子をテレビで見ることがある。その理由が本当によくわかった。
 その晩、主人の母と遺体安置所で夜を過ごした。剣道場ということもあり、とても寒かった。しかし、十七日、十八日と電気のない自宅で過ごしていた私には、こうこうと明るい中で寝ることができたせいか、二、三時間ほどぐっすりと眠ることができた。
 でも一旦、目が覚めると、外を縦横無尽に走っている救急車、消防車、パトカーのボリュームいっぱいのサイレンの音が耳に入り、また、その音で余震の恐怖をかきたてられ、なかなか眠りにつくことができなかった。
 地震のあった一月十七日から母を西神斎場で荼毘にふした二十五日までの九日間はとても長い長い時間だったように思える。また、その間は無我夢中で過ごしていたように思う。
 地震から二カ月が経とうとしている今、私は母の死を納得はしている。しかし、母の冷たかった肌の感触を覚えているにもかかわらず、いまだに母の死を実感できていない。これから先、私が子供を産み、育てていくようになってようやく、『母の死』を実感するのではないかと思っている。