まえがき

「阪神大震災を記録しつづける会」

 代表 高森 一徳


 阪神・淡路大地震が起こった後、私の立ち上がりは遅かった。私は神戸とシンガポールで、翻訳と編集の会社を経営している。神戸市西区、地下鉄の西神南駅にある自宅はほとんど被害がなかったが、会社の様子を知ろうにも、最寄り駅の三宮までの地下鉄が止まってしまった。
 翌十八日中には電話でスタッフ六名の無事を確認できたが、全員が何らかの被害を受けていた。家の下敷きになって肋骨を折った父親の入院に付き添っている人や、近郊へ家族ぐるみ疎開した人。自宅に残っていたのは、女子社員一名だけだった。この間に私は元旦から続いていた禁煙を破ってしまった。
 ようやく、二十一日になって地下鉄で板宿駅まで行けるようになったので、後の十キロは徒歩を覚悟して会社まで出掛けた。家内と娘二人も、会社の様子を見せておこうと誘った。板宿駅から南に下りJRの高架に至ると、テレビの映像で見た焼け跡が一面に広がり、家族全員声もなかった。
 私の会社が入っているビルは、敷地が不等沈下を起こし、すぐそばのポートライナーの高架が落ちかけていたが、数枚の窓ガラスが落ちているだけで、建物の外見は大丈夫だった。事務所は地下の一階にある。地震には強そうに思えた。
 ビルの入り口は、地下の守衛室へ通じる階段だけになっていた。館内の水道配管が破裂したらしく、床はまだうっすらと湿っていた。事務所のドアが開かない。入り口にあった二百五十キロのカラーコピー機が移動してふさいでいた。内部は棚や本箱がすべて倒れ、机の引き出しから飛び出して床に落ちぬれた書類で足の踏み場もない。
 とても手のつけられる状態ではない。小学校六年生の下の娘を誘い机の上に土足で上がって記念写真を撮った。娘の肩に手を置こうとしたら、振り払われた。ビルは電気だけは来ているが、暖房も水もない。仮設トイレもないので、早々に引き上げることにした。
 この日は、ポートアイランドに住む女子社員しか出社できなかったので、彼女だけに見舞金と香水を渡した。地震の直後から、私の頭には亡父の「修羅場の逆目張り」という言葉が浮かんでいた。非常時には人と逆の行動を取れという意味だが、敗戦後の動乱期に事業家としてスタートした父の教訓だ。そこで十八日にシンガポールの現地法人から当座の資金を送らせ、社員全員に見舞金と買い置きの香水を渡すことにした。昔のフランス貴族のように、風呂の代わりに香水をというエスプリのつもりだった。
 地震の翌週の土曜日には、事務所の片付けが会社出入りの運送業者の手を借りて終わった。しかし、地下鉄はいつ三宮まで開通するか分からない、ビルの管理会社は空調が三月末まで復旧しないと宣告しているし、水洗トイレも使えない。使える編集機や自動翻訳機を自宅に移し、印刷機とカラーコピー機だけを会社に残すことにした。幸いその翌週から、チラシの印刷の仕事が始まることになった。社員は二名しか出社できず、ビル周囲の不等沈下で車が入らず紙の出し入れに苦労したが、仕事が再開できたのはありがたかった。
 こうして業務は一部ながらスタートできたが、私の周辺は惨憺たるありさまだった。地震直後にどうしても連絡が取れなかった友人ほど被害が大きかった。梁の下敷きになって死亡した学友もいるし、肉親を失った友人も数名いる。自宅が全半壊した知人は十名を超える。ビルの守衛さんや郵便局の職員さん、出入り業者の方々の中にも多数の被災者がいた。久しぶりに挨拶すると、「お陰さまで大丈夫でした」というのは命のことで、自宅は全壊という人が大勢いた。
 遠隔地の方々から励ましやお見舞いが相次いで送られてきた。私も分かった範囲でお見舞いをしたり知人を自宅に招き入浴してもらったりしていたが、すぐに、「火事を小便で消している」ようなやりきれなさを感じるようになった。

 私は両親を既に亡くしているが、二人とも広島の原爆被災者だった。母は女子師範の学生で被爆したため友人も多く、早い時期に申請したので被爆者手帳を持っていたが、父は晩年になって申請した。父は兵役の沖縄戦線から小倉まで逃げ帰り、報告のため戦友と二人で広島の司令部へ向かう途中で被爆した。戦友は既に亡くなっていた。司令部は壊滅しており報告にも行けかなったし、父はあきらめて郷里の能美島へ帰ってしまったので証明してくれる人がいなかった。
 ところが、申請時に聞き取り調査をした方が、爆心地の太田川の橋のたもとに檄文が掲示されていたという父の記憶を根拠に、被爆者手帳を発行してくれた。杜甫の「国破れて山河在り」という漢詩から始まるその檄文は、板の上にチョークで書かれており、数日で消えて見えなくなってしまったのだそうだ。父はこのような状況でよくこのような名文が書けるものだと感心し、また励まされたので印象に強く残っていたらしい。「自分の強烈な体験も、時間がたつと第三者に証明できなくなる。だれかが記録に残してくれていたから、被爆者手帳がもらえた」。私は父から何度かこの話を聞いた。

 「阪神大震災の記録を残そう」と思った。マスコミも、地震直後から大取材陣を送り込んでいるが、きっとそれらから漏れる記録があるはずだ。どんなささいな記録でも、いつか役に立つかもしれない。私の会社には、外国語の翻訳スタッフもいる。日本人だけでなく外国人被災者の手記も集めたい。被災地各所に四か国語(日本語、韓国語、中国語、英語)のポスターを掲示して集めようと企画した。
 外国ではこの種の手記を募集するのに謝礼をつける。そこで、謝礼、優秀作は有識者による選考委員に決めてもらう、四か国語で受け付け、録音テープも認める、投稿の締め切りは三月十五日とするなど、応募要項の大枠を決めた。有識者による選考は記録を残す上で必要な条件だと考えたので、つてを頼って五人の先生方にお願いしたのだが、皆さんが即諾してくださったのにはこちらが驚いた。結果的には五人の先生方とも、身内を亡くされたり、自宅が半壊したり、職場が被害を受けたりで被災者ばかりになってしまったが、これは最初に意図したのではなかった。被災地で人選したためこうなっただけで、この震災の大きさを改めて痛感した。被災地ではだれもが何らかの被害を受けていた。
 二月十五日に新聞社やテレビ、ラジオ各社にファクシミリを送った。朝日、神戸、毎日、夕刊フジが記事にしてくれ、英字新聞も読売、朝日の二社が掲載してくれた。翌週、A3サイズの四か国語のポスターが出来上がり、二十四日からポスター貼りを引き受けてくれる知人に発送を始めた。また三月一日と二日にはそれぞれ神戸新聞と朝日新聞(阪神版・国際衛星版)に広告を掲載した。
 企画をスタートさせてから、知人に趣旨を説明しポスター貼りとチラシ配りの依頼をして回ったが、ほとんどの人が快く引き受けてくれた。避難所にいた友人まで助けてくれた。被災地の熱気がこのような結果になったのだと思う。二月二十三日になると、その数は三十人を超えた。
 この段階で、私の会社の枠を超えた動きになってきたので、「阪神大震災を記録しつづける会」を発足させることにした。新聞の手記公募広告でも会のボランティアを募ったので、最終的には六十名を超える方々がポスター貼りに従事してくださった。

 ところが手記は三月六日の月曜日までに三十一通しか集まらず、その週末の金曜日になっても累計で六十六通にしかならなかった。ボランティアの方々の数はかろうじて超えたので、これでよしとしなければならないのか、急作りの会に手記を投稿してくださいという企画に無理があったのかもしれないなどと考えていた。
 締め切りの十五日の週に入った。月曜日、火曜日、締め切りの水曜日と日を追って手記が集まりだし、木曜日には、累計で二百二十通を超える数となった(最終累計二百四十通)。
 年齢は五歳から八十六歳まで。国籍も日本以外に、アイルランド、アメリカ、イギリス、カナダ、韓国、北朝鮮、台湾、中国、ドイツ、バングラデシュ、フィリピン、フランス。住所も避難所、被災地はもとより、近畿、中国、関東、東北の各県や、アメリカ、インドネシア、シンガポールと、幅広い手記が寄せられた。