生かされてる医学

五色県民健康村健康道場長 笹田 信五


 「先生は、将来があっていいですね」。

大学を卒業して、内科医となってまだ駆け出しの頃、ある末期がんの患者さんから、こう言われました。

私は、絶句しました。何も言えない自分を情けなく、申し訳ないという思いで一杯になりました。

「生と死を明らかにすることなくしては、臨床医はできない」と思い、以来、生と死を明らかにすることを原点とした、新しい健康医学の確立を求めて歩むようになりました。

十数年がたち、阪神・淡路大震災が起こりました。6433人もの方々が亡くなり、大きな悲しみが空を覆いつくしました。生と死が明らかになったとしても、かけがえのない人を失った悲しみは変わりません。癒されることなどない悲しみです。

ただ、私たちの多くは、死んだら灰になっておしまいと信じています。そこからくる虚無感は、別れをさらに苦しいものにしています。心と自律神経系、内分泌ホルモン系、免疫系は一体となって動いています。虚無感は、この心身相関を破壊して体の健康をも奪っていきます。

せめて、虚無感からの自由を得ていただけたらと思い、大震災の後、十数年にわたって作り上げてきた新しい健康医学を、「生かされてる医学」と名づけ、「心の健康講座」を続けてきました。

ここでは、その「生かされてる医学」の五つの発見について、簡単に書かせていただきます(詳しくは、ホームページ http://www.fyu.jp をご覧ください)。

1.「生かされてる」のは医学的事実です

  人間は七十五兆個の細胞でできています。すべて一個の受精卵から分裂増加したものですが、一個といえども自分で増やしたことはありません。

 顕微鏡を見ながら、細胞を一秒間に五個数えるとすると、一人の人間の細胞を数え終わるのには、百歳を五千回くり返さないと数えられません。

 もっと簡単に言えば、心臓は一日に万回も動いています。しかし、そのうちの一回といえども自分で動かしている人はいません。太陽、酸素、水も自分で作っていません。

「私たちは、大きな生命の世界の中で、生かされて生きている」。これは宗教や道徳ではなくて、100%単純な科学的、医学的事実です。

2.医学的に生かしてくれているかぎりなく優しいYu(ユー)が存在する

「生かされているのは事実だとしても、それは、偶然の結果だ」と主張する人もおられるでしょう。

  精子と卵子が結合した一個の受精卵が分裂をくり返し75兆個の細胞になりますが、顕微鏡で見ると、一つ一つの細胞はすでに小宇宙です。さらに、その一つ一つの細胞が肝臓なら肝臓、腎臓なら腎臓を構成しています。されは、言葉ではとうてい表現できない整然とした、しかも調和のある素晴らしい構造物です。

 自動車や飛行機を考えてください。甲子園球場のような大きな広場に、鉄くずやゴムの塊を山積みにし、その上から水をかけておくだけで、ある日突然自動車となって走り出しますか。飛行機となって空を飛んで行きますか。そんなことをしても錆びてゴミになるだけでしょう。

 自動車や飛行機のように人間に比べれば単純なものでも、設計図を書き、部品を一つずつ作り、それを組み合わせていかなければ何もできません。そんなことは、誰だって分かります。

 しかし、動植物や人間については、「偶然」が設計図を書き、部品を作り組み合わせたというのでしょうか。もし、「偶然」がしたというのなら、天文学的な数の偶然が規則正しく調和をもって重ならなくてはなりません。天文学的な数の偶然が必要ということは、偶然ではないということです。生かしてくれている存在がいることです。それをYu(ユー)と呼んでいます。

感謝をしなくても、私たちが立派な人間でなくても、一切関係なく生かしてくれています。かぎりない優しさです。かぎりなく優しいYu(ユー)が、私たちを医学的に生かしてくれています。

3.死は「私」の終わりではない

 「死んだらおしまい」と誰でもが信じています。しかし、「死は私の終わりである」というのは本当でしょうか。科学的に証明できていることでしょうか。

いいえ、証明した大学も研究所も一つとしてありません。死は誰にとっても最大の問題のはずですが、「死んだらおしまい」と証明もなしに信じています。

 「私」はどこにいるのでしょうか。人間は誰でも、精子と卵子が結合した1個の受精卵からの出発です。しかし、精子や卵子は100%親の細胞です。親の細胞の結合でできるものは親の変形だけです。精子や卵子や受精卵の中に「私」はいません。

 さらに、手や足は切断されても、「私」が一部分消えることはありません。手や足に「私」がいるのではありません。

 すべての細胞は一個の受精卵から分裂した同一の細胞ですから、細胞の中に私がいるのであれば、いろいろな臓器のなかで七十五兆個に分断された「私」が存在することになります。この手の細胞にも足の細胞にも私がいることになります。しかし、手や足がなくなっても私はなくなりません。

いや、脳の中に「私」はいるのだと考えられるかもしれませんが、脳も同じく一つの受精卵から発生したものです。脳だけに「私」が存在することはおかしいことです。

特別に脳だけに残ると考えても、脳は約150億個の神経細胞からできています。それでは、やはり150億個に分断された「私」になります。どの細胞が「私」のどの部分に相当するのでしょうか。

 次に、細胞は分裂しても「私」は分裂しないで、脳の神経細胞に残るとしましょう。しかし、たった一個の神経細胞に、目や耳や痛みや熱さなど身体全体の感覚を伝える膨大な数の神経細胞が集中し、さらに適切な行動の指示を出すことはできません。

 では、最初から受精卵の中に「私」がいたのではなく、脳から自然発生したというのはどうでしょうか。神経細胞が連結しあって、自然に「私」が発生するということは考えられるでしょうか。

 過去の記憶を取り入れて反応するので複雑にはなりますが、連結では、一つの刺激が次の刺激を発生させるという連鎖反応のくり返しです。しかし、「私」は判断する主役であり意欲です。連鎖反応からは発生できません。

 では、神経細胞は電線のようなものですから、束になった電線から電磁波のようなものがでて、「私」が発生するのでしょうか。電磁波から発生するとするのなら、その「私」は、常に電流が流れることの結果として浮かび上がる映像のようなものです。主体としての「私」、能動的な「私」ではありません。

 まして、「私」は悲しみや喜びや愛という心の世界を生きています。物質の反応は強弱だけの量の世界であり、心という意味や質の世界は発生できません。

 このように、身体から「私」が発生したということは証明でません。しかし、「私」は実在します。今このように考え、判断し、行動しています。だから、身体の死は、身体の消滅ではあっても、実在している「私」の消滅ではないのです。

 ただ、記憶は脳の神経細胞に蓄えられていますので、脳の死と共に記憶も消失します。その点から見れば、確かに死は別れです。しかし、灰になって消滅するという虚無ではないのです。

 

4.何もない私が素晴らしい

 優しい大きな生命の世界の中で生かされて、衣食住のために社会を営んでいる存在、それが人間です。社会は衣食住を得る場所であり、確固とした人生の原点ではありません。人生の原点は、「生かされてる」生命の世界です。

 そして、私の価値は世間の評価ではなく、優しいYu(ユー)にとって「かけがえのない大切な存在」であるところからくるものです。社会的に失敗しても、歳をとってどんなに身体が動かなくなっても、「何もない私が素晴らしい」のです。

5.「自分の山」を登るのが人生の喜びです

  生かされてる医学的事実を学んでYu(ユー)の優しさを知り、感じられるようになれば、その結果として、

@      世間体からの自由

A      人間関係からの自由

B      性格からの自由

C      過去の自分からの自由

D      支配からの自由

E      孤独からの自由

F      老いと死からの自由

という「七つの自由」が得られます。

   私たちを縛ってきた七つの束縛から解き放たれて、自由に自分を生きることができます。このように、七つの自由を得て、自分を生きていく姿が「自分の山」を登っているということです。命を支えてくれた人々のためにも、天寿を全うできなかった人々のためにも、人生の最後の日まで、「自分の山」を登り続けましょう。

 

(注)笹田先生は、私たちの会の「各賞選考委員」のお一人として、第一巻からご参加くださっています。また震災後は、毎月一回、兵庫県民会館などで講演会を催し、被災者の心のケアのボランティア活動を続けられました。「生かされてる医学」はそんな活動の中で命名されました。

「阪神大震災を記録しつづける会」に寄せられた1134通の体験手記を拝見し、私にとって印象的だったことの一つは、日本人の手記にはその体験を宗教的に受け止めたものが全くなかったことです。

一方、(第一巻に特に多く寄せられた)欧米の方々の手記には、あの地震が聖書の記述のどれに当たるかを書いたものが目に付きました。「生きた宗教」がある国や時代では、阪神・淡路大震災のような大きな災害の復興の過程で、被災者の心を癒す装置として、さらには救援活動の中心として宗教が大きな役割を担います。

 既存の宗教の開祖は歴史的人物ですから、その教義には「歴史的制約」があります。したがって現代の私たち平均的日本人の「科学的知識」に照らすと、納得のできない教えやタブーがあって当然です。しかし、だからと言って、宗教を持たないということは、自らが神か仏になることです。

 大きな災害に遭ったり、自分や肉親の死に直面したりするとき、自らの理性だけで心の平安を保つのが難しくなります。そんなときに心を守り癒す知恵として、人類はその誕生の初期から宗教を創ったのだと私は思います。

 震災復興、特に心の復興の手段として、宗教はほとんど取り上げられていません。「宗教から距離を置くのが現代的である」という風潮が支配し、マスコミも及び腰です。

既存の宗教を信じられる人は幸いです。しかし、私のように信じられない者には、「宗教を超えた信仰」を見つけるのが、心の平安を得る有力な選択肢の一つでしょう。そういう意味で、私は「生かされてる医学」に注目しています。(高森 一徳)